中央官庁OBの知人が顧問を務める地方の小都市にも3月初め、日本人の夫を持つウクライナの女性と子どもの2人がやってきた。女性は日常生活には困らないくらいの日本語はできるという。市長は受け入れに理解を示し、「できることは、何でもしてあげなさい」と市職員らに指示した。でも、市職員らは「できること」が何なのか全くわからなかった。
すでにロシアによる侵攻直後、市議会で「避難民の受け入れに対する行政当局の考え方」に関する質問が出ていた。顧問はまず、市職員に総務省に連絡するよう助言した。市が何をやるにしても、原資は税金になる。おいそれと方針は立てられない。政府から補助金が支給されるのが望ましいし、せめて大体の方針が決まっていれば、それに従った政策の打ちようもあるからだ。総務省と協議していれば、「何もしていない」という批判を避けられるという計算もあった。
ただ、市当局が総務省に電話をしたところ、「まだ何も決まっていない」という回答だった。そもそも、政府ですら、海外からの避難民に対する施策を十分打ち出した経験がない。内部方針が決まっていても、地方の小さな自治体などに伝えて、メディアにでも漏れたら大変だという計算が働いたのかもしれない。市当局は議会答弁で「現在、政府と協議して、万全の対策を取れるよう準備している」と説明して切り抜けたところだった。
避難民に対する施策を決められないでいるうちに、地元メディアが報道した。市政記者クラブは色めき立った。地方では大きなニュースだ。「記者会見をしてくれ」という要望が出た。避難民の女性は当初、会見に難色を示した。ウクライナにはまだ親族が残っていた。もし、自分の存在が特定されたら、ウクライナの親族に身の危険が及ぶかもしれない、と考えたようだった。市当局が、顔を出さず、音声も変えることで納得してもらった。ただ、記者会見は女性の戦争体験を聞く程度で終わった。女性に今後の国際情勢を語る知識はないし、ウクライナ問題を報道した経験のある記者もほとんどいなかった。
市役所に「避難民を助ける募金箱を置かせてほしい」と頼みに来た市民グループもいた。また、避難民とは関係なく、「ウクライナの平和と和解を祈るため」という願いを込めてウクライナとロシアの国旗をあしらった市の特産品を作って寄付を募った市民もいた。
避難民に対する支援の枠組みもなく、善意の市民たちと行政との役割分担も明確でない中で、すべては手探りで始まった。それでも残業続きの市職員たちは嫌な顔一つせずに対応に走り回った。