昨今、問題行動やトラブルに遭遇しても、見て見ぬふりをしてしまいがちな私たち。先々月、車内の喫煙者を注意した高校生が暴行される事件があったが、正しい行いの結果として自分に危害が及ぶのを誰しも恐れている。
今回取り上げるのは、『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド監督、2008)。冒頭の話と関連させて言えば、1人の頑固親父が、よその子供を叱ったのをきっかけに、暴力のただ中で「父」としての役割をまっとうするというドラマだ。
ここでは、クリント・イーストウッド演じる主人公をめぐる2つの「暴力に関する話」が並行して語られ、最終的に本人のある崇高なふるまいにおいて一致する、という構造を成している。
2つの話のうちの1つめは、彼の表向きの言動に現れた、ドラマの主軸となるストーリーである。それをまずざっと振り返ってみよう。
「疑似父子」のような関係
妻に先立たれた元自動車整備工のウォルト・コワルスキーは、昔ながらの価値観と生活スタイルを堅守する頑固な老人。その気難しさゆえ、日本車のセールスマンである長男はじめ別居している息子家族からはいささか疎まれている。
また彼は、自分の住んでいる地域にアジア系移民が増えてきたことに苦々しい気持ちを隠さない、人種差別主義者の一面も持つ。その後のアメリカの政治情勢と重ねて言えば、トランプを支持するような保守的なアメリカ人の一典型といったところだろう。
ウォルトは、所有するヴィンテージカー(グラン・トリノ)を、ギャングの少年たちにそそのかされて盗もうとした隣のモン族の少年タオを銃で威嚇して追い払うが、ある日、黒人の少年たちに絡まれていたタオの姉スーを助けたことから家族に感謝され、彼らの暖かい人情に触れて、これまで敬遠していた隣家の移民たちとの交流が始まる。
ウォルトは、父のいないタオにさまざまな仕事を教えて一人前にしようとし、タオもウォルトを頼り慕うようになる。ウォルトとタオの関係は、言わば擬似父子だ。
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それを快く思わないモン族の少年ギャングたちはタオに暴行し、怒ったウォルトがその1人に報復した結果、タオの家には銃弾が撃ち込まれ、スーは集団暴行を受ける。
自身の「正義」の怒りが更なる暴力を引き起こしたことを知ったウォルトはついに、自らギャングたちの銃撃を浴びることによって彼らを法の裁きに委ねるという賭けに出る。
彼の死をもってそれは成功し、愛車グラン・トリノはウォルトの遺言により、遺族ではなくタオに譲られる。それは、「父」の価値観が、血の繋がっていない「息子」に引き継がれたことをも示している。