技術の祖父と、マーケティングの父
地方の小さな部品メーカーが、なぜ世界を制することができたのか。それをひもとくには、生方家の血をさかのぼる必要がある。
創業者の祖父、生方進は、大学まですべて特待生で、学費を1円も払わずに進学した英才だった。名古屋工業大学の講師になったが、水銀の性質を利用した液体スイッチを開発して世に出すため、優秀な学生2人を引き連れて1957年に研究所を設立。いまでいえば大学発ベンチャーに当たる。
「祖父は四六時中、研究のことしか考えていない学者肌。つねに枕元にノートとペンを置き、朝起きたらまずノートにたくさん書き込みをしていたと聞いています」
アカデミアで磨いた知見を背景に、75年にはモータープロテクターを発売。さらに4年後には、現在の球体式のもとになる水銀式感震器の開発に成功する。
ただ、新製品を開発するだけでは市場を取れない。二つの製品をニッチトップに育てたのは、創業家2代目の父・生方眞哉の存在が大きい。
眞哉が1歳の眞之介を連れて渡米したのは86年。現地法人を立ち上げ、モータープロテクターをコンプレッサーメーカーに売り込んだ。競合は、世界的大手のテキサス・インスツルメンツ。規模は象とアリほどの違いがある。
「テキサス・インスツルメンツは既製品のカタログ販売で、メーカーの細かな要望には対応しません。それに対して、うちはカスタム品で差別化。それがアメリカでも評価されて、エアコン最大手のキャリアにも採用されました」
カスタム品でありながら、自社ブランドにこだわったのも眞哉だった。「生方マークのない製品は会社から一歩たりとも出さない」という徹底ぶりで、世界で通用するブランドを築いていった。
自社製品は全数検査を行い、「生方マークのない製品は会社から一歩たりとも出さない」と品質管理を徹底。
学者肌のエンジニアである祖父と、営業やマーケティングに長けた父。得意分野が異なる親子は、たびたび衝突する。株主総会で進が眞哉に「うちは売って回らなあかんものはつくっていない!」と言い放ったこともあったという。
しかし、タイプが違うからこそ、かみ合ったときには足し算以上の力を発揮する。進は91年に他界するが、会社を引き継いだ眞哉が90年代後半に中国に進出。生方製作所を真のグローバルニッチトップへと押し上げた。
第三の矢は「なんとなくできた」
生方製作所の海外売上比率は80%。いまやUBUKATAは世界的ブランドとなった。ただ、モータープロテクターや感震器が開発されたのは70年代。そこから改良を重ねて二枚看板に育ったものの、世界を制する新製品は長らく誕生していなかった。
しかし、ここにきてようやく期待の新製品が開発された。冒頭に紹介したEV用直流遮断器だ。