ボクシングを愛し仲間たちと結束して資本家と闘い、”女がやる”バレエなど決して認めなかったマッチョな父親は、息子の情熱と才能の前に跪いた。そして彼を援助していくため、仕事で通してきた”正義”を曲げ泥を被ることを選んだ。それを何も知らないビリーに直接伝えて、「おまえのために決心したのだ」などと恩着せがましく説教などしないところがいい。
身体を張って意思をぶつけてきた息子に、父もまた自身の行動の責任において応えたのだ。
ビリーに付き添って上京し、スクールの面接でナーバスになっている息子より真剣に受け答えするシーン、息子の合格を知って思わず外に走り出すシーンも微笑ましいが、印象的なのは、いよいよロンドンに旅立つビリーとの別れと、それに続く場面である。
バス停で、普通なら息子と固く抱き合って別れを惜しむと思われるところ、ジャッキーはビリーを高く抱き上げている。まるで、ビリーが思い切り垂直ジャンプしたところを下から支えているかのような抱き方で、自分の頭上にある息子の顔を嬉しそうに見上げている。
父ジャッキーを演じたゲイリー・ルイス(2015年撮影)(Mark Sagliocco/Getty Images)
次いで、ビリーを見送って炭坑に戻ったジャッキーが、トニーと共にまたケージに乗って地下に降りていく場面が続く。この時の彼の顔は、ストライキが失敗に終わった職場の今後の厳しさを思わせるかのように、暗いと言っていいほどに引き締まっている。
息子はより「上」へ。父は再び「下」へ。対極の動きがこの終盤で、単に物理的なものだけでなく、象徴的な意味を帯びて迫ってくるのである。あたかも、ビリーの夢の実現への第一歩は、父たちの長い闘いの敗北と引き換えであるかのようだ。
斜陽となった産業のせいで地盤沈下していく小さな町の、労働者階級の生活から少年が脱出するには、一度しか来ないチャンスの前髪を掴むしかない。それがロックやパンクあるいはサッカーやボクシングという元々労働者階級の音楽やスポーツではなく、クラシックバレエという中産階級以上の文化であったところに、このスター誕生前夜の物語の一抹の苦さと面白みがある。
ジャッキーにしてみれば、ビリーが選んだ道は「あっち側」のものだ。ビリーは自分たちが苦労して築いてきた生活、文化の継承者ではないのだ。そのことをわかった上で息子を応援し、新しい世界に送り出そうとする父の姿に胸を打たれる。ここには親子の、そして先立つ者と後から来た者の、普遍的な関係性が描かれている。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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