「やむに已まれぬ何か」に乗りうつられて
博打で貧困生活を強いられる左官職人の長兵衛は、見ず知らずの若者が大金を失くし、橋から身投げしようとするところに偶然出くわす。引き留めに応じない若者に長兵衛はたまたま懐にあった五十両をくれてやる。その金は吉原に身売りした自分の娘のために借りたもの。結局、その行為がもとで長兵衛が幸せになるのが「文七元結」だ。
この噺(はなし)の最大の謎は、なぜ長兵衛は若者に五十両を差し出したのかだ。
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その理由について中島氏は、「落語は人間の業(ごう)の肯定」ととらえた立川談志を軸に展開する。
「人間は小さな存在です。細かいことに執着し、嫉妬ややっかみを繰り返す。エゴイズムから逃れ出ることもできない。しかし、その『人間の小ささ』を大切にするのが落語であると、談志は主張します」
さらに、『歎異抄』に記された親鸞の悪人正機に言及し、自分の無力を自覚することで「他力」=仏の業力が現れると述べる。
自分はどうしようもない人間と認識した者にだけ、合理性を度外視した「利他」の心が宿る。この逆説こそ、談志が追究した「業の肯定」だったと。
「拡大自殺」の犠牲となった医師二人の「利他」はおそらく、何かの見返りを求めたものではあるまい。「やむに已まれぬ何か」が彼らに乗りうつり、結果として患者の回復に寄与したと考えるしかないと、中島氏の著書を読んだあとではそう思わされる。
西沢医師は長男を襲ったTの過去を知る手立てはなかったのか。鈴木医師はモンスターペイシェント(問題患者)として有名だったWの自宅をなぜ弔問したのか。
そういった問いかけが合理的世界からの接近であることはいうまでもない。私たちに必要なのは、私たちの内面にもTやWと同じ「闇」が巣食っているのではと問いながら「利他」を実践することではないか?では、どうやって?
それを日々、探しながら診療に向かいます。としか今の私には言えない。去年今年のみならず現代社会を貫く、合理性という名の「棒のようなもの」を追いかけて。