以前、筆者が郷ひろみさんにインタビューしたのは、2時間の激しいトレーニングを終えた直後でした。途中、水分は補給するものの、休憩もまったくとりません。驚きを素直に伝えると、こんな答えが返ってきました。
「20代後半から毎日のようにトレーニングしてきてますから(笑)。僕は60代からの10年間を“郷ひろみ”としての最盛期にしたいと思っているんです」
60代で郷ひろみの最盛期を目指す
「男の子女の子」でデビュー、彗星のように現れ、あっという間にトップアイドルの座をつかんだのは1972年、16歳のときでした。以来、「よろしく哀愁」(1974年)、「お嫁サンバ」(1981年)、「2億4千万の瞳」(1984年)など、ヒット曲を連発。長きにわたり、華やかなスターの道をひた走ってきました。
しかし、若い頃はずっと強い危機感を持っていたというのです。
「何年かやってくると、なんとなく自分自身のことがわかってくるものです。歌も踊りも思った以上にダメだなって。このままじゃ、遅かれ早かれ僕は終わっていくと思いました」
トップアイドルでありながら、焦りと不安が常にあったというのです。やればやるほど、自分に足りない部分が次々に見えていった。そして郷さんは、驚くべき選択をします。大胆にもすべての音楽活動を休止、40代半ばにしてアメリカのニューヨークに渡り、ボーカルトレーナーに師事したのです。
「芸能界はそんなに甘くないですから、何年間かアメリカに行くことによって、郷ひろみの場所がなくなってしまう可能性もありました。でも、不思議と渡米については迷わなかった。あのまま、なあなあで日本にいたら、人としてもだめになっていたと思う」
帰国したのは、5年後。次から次へと新しいスターが出てくる芸能界で、5年ものブランクは途方もないリスクです。しかし、そのリスクをおかしてまで、郷さんは自らに力をつけるという選択をしたのです。
そして、「自身が探していたものを手に入れ、機が熟した」という思いで、日本に戻ります。この時期に立てたのが、「60代で郷ひろみとしての最盛期を目指す」という目標だったのです。長い目で見ての大胆なチャレンジがあってこその、いまなのです。