新型コロナウイルスのパンデミックで世界が揺れるなか、米国の治療薬開発計画「オペレーション・ワープ・スピード」などにより、空前絶後の速度でワクチンが開発された。ただ、そこでメッセンジャーRNA(mRNA)技術が大きく寄与したことは知られているものの、その背景はほとんど報じられていない。いまこそ世界が知るべき「陰の英雄」とは。
2020年夏、新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界の一日あたり新規感染者数が20万人を超えるなか、ファイザーの最高経営責任者(CEO)アルバート・ブーラとビオンテックのCEOウグル・サヒンはビジネスジェットに乗ってオーストリアの田舎町へと向かった。目的地は小さな製造施設、ポリムン免疫生物科学研究所だ。
ファイザーとビオンテックが開発した新型コロナウイルス用ワクチンはこのとき、米国食品医薬品局(FDA)の緊急使用許可の取得に向け優先的に審査を受けていた。このワクチンはmRNA技術を使って設計され、mRNAがヒトの免疫系にコロナウイルスと戦うよう指示する仕組みになっている。
しかし、mRNAをヒトの細胞に安全に取り込ませるには極小の脂質のかけらで包む必要があった。ポリムンの製造工場は、このために必要な脂質ナノ粒子(LNP)をつくる世界でも数少ない場所のひとつなのだ。
「ワクチンのmRNA分子をつくるのは簡単です。難しいのは、それをいかにヒトの細胞に取り込ませ、指示を出させるかなのです」(ブーラ)
しかし、モデルナやビオンテック、そしてファイザーが、どうやってこの極めて重要な「ドラッグデリバリーシステム」を開発するに至ったのかは、これまで語られてこなかった。
調査の結果、この必要不可欠なシステムの開発における最大の功労者は、57歳のほぼ無名のカナダ人生化学者イアン・マクラクランであることが明らかになった。彼は、「プロティバ・バイオセラピューティクス」と「テクミラ・ファーマシューティカルズ」という2つの会社で最高科学責任者を務め、この技術を開発したチームを率いていた。
しかし現在、大手製薬企業は1社たりとも、表だってマクラクランの画期的な研究を認めていない。マクラクランも、自身が最初に開発した技術から、名声も金銭も得ていない。
マクラクランとマデン
13年10月、当時テクミラの最高科学責任者を務めていたマクラクランはドイツのホーエン・テュービンゲン城で開催された第1回国際mRNAヘルス会議のカクテルパーティに出席した。そこで彼は、まだ新興企業だったモデルナのCEOステファン・バンセルと話す機会を得て自身のドラッグデリバリーシステムを使った共同開発を提案したが、「おたくの技術は高額過ぎる」と言われてしまう。
その場には、元同僚で5年も前にテクミラを解雇されたトーマス・マデンもいて、マクラクランはいい気持ちがしなかった。この2人の科学者のライバル関係が、新型コロナワクチンが依存するドラッグデリバリーシステムを巡る紛争のルーツなのだ。