彼らは何と闘ったのか。そして、日本人の心に刺さったメッセージは、時代とともにどう変わっていったのか。
ノンフィクション作家の児玉博氏が、経営者の歴史的発言から「日本企業メッセージ史」をたどる。
「無駄なやつは一人もいない」
「俺にはクルマを作る権利がある。自由競争こそ産業を育てるんだ」
1951年、本田宗一郎が55歳のときに官僚たちに言い放った言葉だ。戦後、自動車会社が乱立していたことから、通商産業省(当時)が2社に収斂させようとしていた。当時、二輪を製造していた本田技研工業は反発し、四輪への夢を捨てなかったのだ。
本田技研工業(ホンダ)を一代で築き上げた戦後を代表する経営者、本田宗一郎。
「日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。わが本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」と、本田は社員を鼓舞した。それは自身への鼓舞でもあった。
その真価を世界に見せたのが1971年である。米国で制定された「マスキー法」は76年以降に自動車を製造する場合、排ガス濃度を90%カットしないと米国での販売は許可しないというもの。当時の米国のメーカーは政治的な取引に走った。しかし、本田は全社員にこう訴えた。
「技術的に解決しなければならないことを政治的に解決しようとすると永久に遺恨が残る。技術的に解決すべきものは、どのようにしても技術面からやらねばならない」
ホンダは低公害型のCVCCエンジンの開発に成功。日本の自動車メーカーがホンダに続き、日本の技術力の高さを世界に知らしめる突破口を開いたのだ。
生涯、技術に情熱を傾けた本田は社員たちから「オヤジさん」と呼ばれた。本田と社員の関係を表す彼のセリフが次のものだろう。
「無駄なやつは一人もいない。皆に得手をやらせれば苦労を厭わず向上心が出て頑張り、本人は幸せなんだ」
別の視点でグローバル化を考えていたのが、ソニーの創業者、盛田昭夫だ。
「グローバルになるには、その地のインサイダーにならなければダメだ。現地法人を作り、現地の人間を雇い、そして現地の一流の人間を社長に据えて初めてその国のインサイダーになれる」
盛田は社員たちにそう言い続けた。
ソニー創業者の一人である盛田昭夫。1988年、仏アルザス工場にて。
英語で海外出版した『MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略』や、石原慎太郎との共著『「NO」と言える日本』はベストセラーに。
だが、引退直前、社内の部長たちにこうスピーチした。
「我々はもういっぺんアメリカを勉強し直すべきではないだろうか。ソニーはアメリカの技術をうまいかたちで導入して成長を果たした。80年代にはアメリカを追い越した。しかし、それで満足してはいけない。いままた、アメリカから学ぶべきことが必ずあるはずだ」
「無印良品は反体制である」
製造業が優れた日本製を世界に送り、日本が豊かになると、1980年代、商売に「“反”資本の論理」を打ち出す経営者が登場した。セゾンの堤清二だ。
西武流通グループ(セゾングループ)を立ち上げ、辻井喬のペンネームで小説家としても活躍した堤清二。
あえてブランドを与えない商品を企画。「無印良品は反体制」と言い出した。満たされた時代に洗練された消費のあり方を打ち出し、都会の若者に支持をされていった。
一方、製造業との決別を宣言したのが、ソニーの出井伸之だ。