しかし、まったくの素人がいきなり店を開くわけであり、当初、待ち受けていた困難は想像に難くない。
店を開いて最初の1年ほどは、頼みにしていた近隣からの客足は想定ほど伸びなかった。のどかなベッドタウンに突如現れた少しエッジの効いた「洋品店」、当然と言えば当然の反応だったかもしれない。
元々、頼りにできる顧客がいたわけでもない。目標の売り上げからは遠く、苦しんだ。しかし、それでも2年、3年と経つうちに、じわりじわりとではあるが、他の店にはない品揃えが呼び水となって、客足が伸びていった。意外なことではあったが、SNSなどで店の存在を知った遠方からの客も多かった。
「お客さんのことがわかるというのはある種の思いあがりだと思う」と語る井本は、あえてターゲットを絞ることはしない。店を開いた当初はブランドや価格帯も含め、店頭に並べては客の反応を見て、試行錯誤を繰り返していた時期もあったという。
しかしある時から、井本の主観である「自分の好み」を優先して、商品をセレクトしていく方向にシフトしていった。悩んだ末、それが何よりもお客さんに対して誠実であると考えたからだという。小手先のマーケティングよりも自分の感覚で勝負した。
しかし、1人で仕事をしているがゆえの独りよがりにならないためにも、お客さんから(ときに20代そこそこの若者からも)、じっくり話を聴いて「教えてもらう」よう気をつけているという。
「たとえばいま40代の自分の感覚はもちろんリアルにあるわけですが、若い人の感覚はもうわからない。いわゆる『若者像』と実際の若者は違うんです。わかっているつもりというのが実はいちばん怖いと思っています」
そんな井本に「いまは楽しい?」と尋ねると、井本は即座に「楽しいですよ」と満面の笑みで返してくれた。毎日の大半を、好きなものに囲まれた空間である自らの店で過ごし、来てくれるお客さんと服を通じて、ときに脱線するような話も含めてコミュニケーションをとれることが、何よりの幸せであるという。
会社勤めのときに悩まされていたストレスもなくなった。いわば井本にとっては安息の場所でもある。
とはいえ、業界全体の先行きやコロナ禍による生活スタイルの変化など、先を考えると不安材料はたくさんある。けれども、お客さんが、そして自分自身も幸福を感じられる「本当に楽しい買い物」とは何かを考えながら、井本は今日も店頭に立っている。
連載:装幀・デザインの現場から見える風景
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