突き進むリディア・ジェット
現状では、ソフトバンクが設立した1000億ドル規模のビジョン・ファンドは、その巨額投資や業績不振のコワーキングのユニコーン企業「ウィーワーク」との密接な関係により、IT業界での評判は失墜している。ただ、ジェットがクーパンと出会った15年には、ビジョン・ファンドはまだ存在していなかった。ジェットはゴールドマンサックスやJPモルガンを経て、現在パロアルト・ネットワークスのCEOであるニケシュ・アローラが率いていた当時の、少人数のメンバーからなるソフトバンク・インベストメント・アドバイザーズの一員になった。同社は15年初め、クーパンへの10億ドルの出資を主導したばかりだった。
17年にビジョン・ファンドが発足すると、ソフトバンクのクーパンへの最初の投資はこの新たなファンドに組み入れられた。18年にクーパンへの再投資を検討する時期が来ると、主導的立場にあったジェットは慎重な姿勢で臨んだ。9カ月にわたるデューデリジェンス(投資先への調査)を経て彼女は、キムなら確実に20億ドルの追加出資を有効に活用し、フルスタックのプラットフォームのオンライン店舗と実店舗を融合した小売りへの移行をやり遂げられると確信した。
ビジョン・ファンドのパートナーとソフトバンクの間では、ビジョン・ファンドによるクーパン1社への27億ドルもの投資はやり過ぎだと議論になった。しかし、そこへ最終意思決定者の孫正義がやってきた。
「マサは確信を得たようで、しっかりと後押ししてくれました」(ジェット)
20年3月3日、クーパンはソフトバンクが主催した「プレIPOサミット」に出席した。孫正義がウォール街の主要なIPO関係者を招いて、ビジョン・ファンドの主要投資先を紹介するのが目的のイベントだった。だが当時、韓国は新型コロナウイルスとの戦いの最中で、クーパンにIPOについて真剣に考える余裕はなかったとジェットは言う。しかもその後、クーパンはコロナ禍での記録的な需要の高まりや、従業員の安全に関する対策を迫られることになった。
これは高くついた。韓国勤労福祉公団は20年10月の従業員の死を、労災認定した。クーパンはこれを認め、遺族への援助を約束。また、英紙フィナンシャル・タイムズは5月、クーパンでは過去1年に8人の従業員が過酷な労働条件下で死亡したと報じた。ジェットによれば、数億もの資金を安全対策のテクノロジーに投じた同社にとって「胸を締め付けられるような試練」だったという。
それでも、コロナ禍を追い風にクーパンの業績は急拡大した。売り上げは90%増となり、損失は縮小した。ゆっくりではあるが、資本市場が活性化し、IT銘柄やIPO、SPAC(特別買収目的会社)への関心を取り戻すと、クーパンの株価は上場初日に40%も高騰した。ソフトバンクの保有株式の評価額も週の終値で約250億ドルとなった。
昨年春の本誌のインタビューで孫正義が「ソフトバンクグループが危機に直面しているのではないかと疑念の声が上がっているが、自分の戦略は不変だ」と語ったことで、ビジョン・ファンドの投資戦略を疑問視する声が高まったこともある。しかし、ジェットにとって、クーパン株の上場後の高騰は、ビジョン・ファンドがここ数年実践してきた巨額投資戦略の「絶対的な有効性」を証明するものだ。
ジェットはこう断言する。
「韓国で巨額な投資を行えば、他に類を見ない素晴らしいものを構築できると確信していました。米国や中国のような厚みのある市場では難しくても、適切な市場であれば、われわれは間違いなく同じことをやるでしょう」
Coupang クーパン◎2010年、ボム・キムが韓国ソウルで創業したEコマース。食料品から衣類、日用品、家電などあらゆるものを扱う。アクティブユーザー数は約1600万。約5万4000人を雇用する。韓国の数あるEコマースのなかでも順調に成長を遂げ、21年第1四半期の売り上げは前年同期比74%増の約42億ドルに達した。