オードリー・タンの母親が語った、ギフテッドの子供と「学校恐怖症」

提供:唐光華/オードリー・タン


子どもを比較する教育が生んだ悲劇


そんな状況ではあったが、オードリーは二年生から設置されたばかりの公立小学校の「ギフテッドクラス」に転校した。普段は一般クラスに在籍し、国語と算数の授業だけは、成績が突出する子どもたちを集めて作られた「ギフテッドクラス」の授業を受けるというスタイルが採用されていた。

だが、ここでオードリーは「自分の極限を超える」状態へと追い込まれる。一つは教師らによる体罰、そしてもう一つが子ども同士を比較する教育方法がもたらす生徒同士の嫉妬だった。

台湾は1949年から87年まで38年間もの長きにわたり、戒厳令が敷かれていた。直接選挙が実現するなど民主化の道のりを歩み始めてはいたものの、教育の現場にはまだ権威主義の軍事教育が色濃く残っており、教師による体罰が横行していた。

母親によれば、「叩くことでこそ子どもをより良くしつけできる」と考え、保護者会で子どもを叩いて教育するよう願い出る者もいたという。

オードリーは「教師がクラス全員を管理しなければならなくて大変なのは理解できる」と、強く反抗したことはなかったが、心から体罰を恥じていた。

母親も「ギフテッドクラス」に入ればオードリーの状況が少しは良くなるかと思っていたが、現実はその逆で、当時の教師らはギフテッド教育に対するノウハウも乏しく、政府からの支援も足りていなかった。

さらに、「ギフテッドクラス」の保護者たちは我が子の成績を他の子どもたちと比較してばかりいたため、子どもたちの嫉妬心はエスカレートし、教師たちを困らせた。オードリーに向かって「なんで死んでくれないの? お前が死んだら、僕が一番になれるのに」と言った生徒もいた。その子は、クラスで一番になれないと父親に叩かれていたのだ。

その頃からオードリーは「学校恐怖症」へと陥った。夜寝る時間になると、「自分の生命が危険にさらされている」と訴えて泣き出し、なだめてやらないと眠りにつけられない。悪夢にうなされ、朝も起きられなくなっていた。

決定打になったのは、クラスメイトから要求されたカンニングを断ったために4〜5人から追いかけられ、腹部を蹴り上げられて気絶してしまうという出来事だ。その日の夜、黒くあざになった腹部を見せ「これでもまだ学校に行けって言うの?」と言うオードリーに、母親はついに「もう行かなくていいよ、家にいなさい」と返事をしたのだった。

「オードリーの休学は、家庭に投げ込まれた爆弾のようだった」と、母親は手記に書いている。当時の台湾では、義務教育における生徒の不登校は行政罰に相当し、保護者は一日あたりの罰金を支払わなければならなかった。この時代、義務教育における学校とは「通わなければ罰せられる」場所だったから、保護者にとっても「子どもが登校拒否になる」ことが許される雰囲気ではなかったのだ。
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文=近藤弥生子

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