3月11日のあの日。新宿駅構内の階段で少女と解いた計算式

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2020年5~8月、ウェブメディア『grape』では、エッセイコンテスト『grape Award 2020』を開催、『心に響く』と『心に響いた接客』という2つのテーマから作品を募集した。

3月11日、あの日から12年経った今、その応募作品の中から佳作に選ばれた『特別授業』(作者:奥村敏生)を紹介する。


学習塾でアルバイトをしていた僕は、宿題の指導に関して多少なりとも自信を持っていた。

ところが、3月11日、人が大勢避難している新宿駅構内の階段に座って計算式を解き進めるのは初めてだったし、何より、目の前にいるたったひとりの生徒の前では、この非常時にあっても平静を装わなければならないとなると、思うように頭が働かず、その自信も揺らいでいる。

遡ること2時間、停車する中央線の車内で大きな揺れを感じ、避難のため電車を降りようとしたとき、車内に小さな女の子がひとり残っているのを見かけた。

真っすぐ一点を見つめる彼女の眼には明らかに恐怖の色が浮かび、身体は固くこわばり座席から一歩も動こうとしない。

「ひとり? もう電車は動かないみたいだから、一緒に避難しようか?」

挙句知らない男の人に話しかけられたことが却って別の恐怖を煽ったらしい、彼女はか細い声で「大丈夫です……。」とつぶやいたが、乗り合わせた小山さんという別の女性も声をかけてくれたおかげで、何とか警戒を解くことができた。

ハナちゃんは、おもむろにランドセルを開いた


女の子はハナちゃんと言い、小学二年生、電車で帰宅途中に地震に見舞われてしまった。小山さんは僕と同い年の大学生で、ともにこうした災害にあうのは初めてだったが、「ハナちゃんを守らなければ」という共通の目的ができたことで、その後の避難行動はスムーズだった。

公衆電話でハナちゃんのご両親に連絡をとったところ、父親が自宅から自転車で迎えに来られることがわかった。大まかな待ち合わせ場所と時間を確認すると、三人は頑丈そうな商業ビルの地下に落ち着いた。

不安や疲れを感じる僕と小山さんとは対照的に、すっかり明るい様子のハナちゃんは、おもむろにランドセルを開くと計算ドリルを取り出し、「宿題を教えてほしい」という。

一瞬、呆気にとられこそすれ、これでハナちゃんの恐怖を紛らわせることができると、アイコンタクトで確認し合った僕と小山さんは、駅ビルの階段を教室に、とびきり明るい先生を演じることにした。

たったひとりの生徒は優秀で、このような状況にあっても集中力を発揮し、順調に問題を解き進めていく。

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様々な心配事が頭をよぎる中、カラ元気でどうにか先生を演じていた僕たちだったが、不思議なもので、一問、また一問と、一緒に問題を解いては喜ぶハナちゃんを見ていると、なんだかこちらの気持ちが晴れていく。

ハナちゃんを守らなくては、と気丈に振舞っていたつもりだったが、実は僕らこそ、彼女の明るさや無邪気さに勇気づけられていたらしい。

すっかり日も暮れたころ、僕たちはハナちゃんのお父さんと落ち合うことができた。無事に家族に会うことができたのは何よりもうれしいし、おまけに現役大学生ふたりが徹底的に指導した宿題の出来は我ながら完璧だった。

「宿題を教えてくれてありがとう」そう言うハナちゃんに、僕たちこそありがとうと伝えた。ハナちゃんはなぜ自分がお礼を言われているかわからないようで、照れ笑いを浮かべている。つぎに学校に行ける日は少し先になるかもしれないけれど、ハナちゃんはきっと本当の先生に褒められるに違いない。

文=奥村敏生

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