今年話題の2ブランドから考える、ラグジュアリービジネスの行方

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20〜30万冊からスタートし、最終的に40〜50万冊を所蔵する図書館を2024年に開館する計画です。哲学、建築、文学、詩、職人仕事に特化した書籍を世界中から購入するのですが、選書の基準は「人間らしい世界をつくるのにどれだけ貢献しているか」。現代に生きる著者よりも、古い時代に生きた著者の文章に多くを学んできたクチネリ氏の意向が反映されています。

人が人として扱われないエピソードは、アフリカや中東の悲惨な戦場だけでなく、先進都市の現代的なオフィスにあってさえ、日常茶飯事にあります。

米国の心理学者、スティーブン・ピンカーが『暴力死の人類史』に記すよう、確実に無残な死は減少し続けているかもしれません。しかし、仮に『人間らしさの人類史』という本があった場合、人間らしい人生がおくれる社会になりつつあるのか? と、ぼくはクチネリ氏の構想を聞いて考えだしたのです。

「人間らしさ」とは何か?


2014年に初めて彼にインタビューして以降、何度も会話を交わし、たくさんのインタビュー記事を読んできました。「肝心なのはウマニタ(「人間性」のイタリア語)だ」と耳にタコができるほどに聞いてきたにもかかわらず、彼が「人間らしい社会のために図書館をつくる」と発表したとき、「人間らしい」の神髄が理解できていなかったと虚を突かれた思いがしました。詩を読みあげるような抑揚で「ウマニタ」と発声したときの響きが、ぼくの心のどこかに刺さったようです。


クチネリのつくる図書館の外観イメージ

やや細かく書くと、ぼくはこれまで、「倫理的」や「人権」という表現が「人間らしさ」ともっと近似値であると思い込んでいた。ふっと、そう気づいたのです。

クチネリ氏が口に出す「ウマニタ」は、明るく自由奔放、それでいて節度がどこかにあり、ちょっとした逸脱があっても機嫌が悪くならない曖昧さを十分に含んでいる。決して窮屈ではない。きっと、彼が敬愛する古代ギリシャの賢人たちや古代ローマ帝国のハドリアヌス帝は、こうしたところに目線を合わせていたに違いない……と感じたのです。

「人間らしさ」は、いわゆる「人はこうあらねば」と似て非なるものではないか。「人権」や「倫理的」は「人間らしさ」の一部の要素に過ぎない。「人間らしさ」にはもっと多くの要素があり、逆に他の要素と結びつかない「人権」や「倫理的」は極めてメカニックな機能に見えてしまう気がしました。

クチネリ氏も「倫理的」や「人権」という言葉を使わないわけではないですが、「人間らしさ」程には好んで使っていない。推測ですが、彼の目指すところは「魂のありよう」にあるために、肝心なことを表現する言葉の選択も、一面を切り取るようなものをできるだけ避けているのかもしれません。そうした彼の慎重さと深さに接すると、「コンシャス」と「サステナブル」を並べて「社会的に意識の高いあっち方向ね」と一括りにする危険性に思い至りました。


プレス発表に登壇したクチネリ氏(左)。1000年以上先も見据える彼は、11歳の孫も壇上に誘う

前述のサーラ・ベルナートが「ヒューマニティ」や「コンシャス」に何かを感じ取ったのにも、理由があるのだろう想像します。彼女の祖父はアウシュヴィッツ収容所の生存者で、その後、ハンガリーの人々に科学的知識を啓蒙することに尽力した。彼女は幼少時代に、共産主義時代に人間らしさを失った社会の匂いを嗅いでいたのかもしれません。

クチネリ氏の図書館構想の発端には、人が生きるにあたっての根幹が“詰めの甘いレベル”で話されていることへの苛立ちもあるのでしょう。もっといろいろなことを深く考えていかなければと反省中です。

文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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