追及か、ばらまくか 政治家の役割

尹錫悦(ユンソクヨル)・前検事総長(Photo by Kim Hong-Ji - Pool/Getty Images)


だが、「不正を暴く能力」だけが大統領に求められる資質ではあるまい。事実、尹錫悦氏は野党の大統領選候補選びの過程で、失言を連発した。最近は、「任せる能力」で軍人出身ながら、一定の経済成長を果たした全斗煥元大統領の例を引き合いに出しているが、全体を見通す力があってこそ、「任せる能力」も発揮できるというものだろう。別の韓国政府元高官は「尹錫悦氏が政治家未経験なら、対抗馬の李在明氏は国政未経験。李在明が主張しているベーシック・インカムも、ばらまきのにおいがする。不安な候補者同士の争いなんて、初めての経験だよ」と話す。

世論に押されて「正義の味方」「優しい指導者」を演じるのは簡単だろう。むしろ、政治家の真価は、「樅ノ木は残った」の原田甲斐ではないが、世論を敵に回してでも、身を挺して国民のために働くことが重要なのではないか。

数日前、日本政府の元高官と、近代でこうした政治家には誰がいたか、という話になった。相手は岸信介、私は竹下登を挙げた。岸信介は1960年の日米安全保障条約の改定を巡る大混乱のなか、責任を取って辞職した。「声なき声に耳を傾ける」「私のやったことは歴史が判断してくれる」という発言が有名だが、逆に言えば、それだけ世論の反対が大きかったということだ。ただ、現在で日米安保条約改定が間違っていたという声が、日本の多数意見だとは言えないだろう。

私が竹下登を挙げたのは、かつて政治部記者時代に竹下が消費税を導入した際の話を聞かされていたからだ。竹下内閣は1989年4月1日、税率3%として初の消費税を導入した。世論は激怒し、折からのリクルート疑惑もあって竹下政権の支持率は急落。「支持率も消費税率も3%」などという陰口も聞かれた。当時の政府高官が退陣間際の竹下に会うため、首相官邸の首相執務室を訪ねた。竹下は窓際に立ち、静かに中庭を眺めていた。この高官は「総理、私は残念です」と思わず声をかけた。日本の財政の未来を考えた場合、消費税の導入が必要なことは、蔵相を長く務めた竹下も、この高官もよく理解していたからだ。だが、竹下は「政治家は責任を取るのが仕事だから」と言ってのけたという。

最近、財務省の矢野康治次官が月刊誌「文芸春秋」への寄稿で、衆院選や自民党総裁選を巡る経済対策を巡る議論を「バラマキ合戦」と指摘した。自民党や公明党内から不快感を示す声も漏れたという。

「岸だ」「いや竹下も」と私と言い合っていた政府の元高官は「あれを矢野さんに言わせたら、政治家の名折れだよな」と苦笑いした。

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文=牧野愛博

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