なぜいま、デジタル庁は「デジタル」を叫ぶのか?

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新しいメディアの普及とは


もともとデジタルという言葉は指を意味するラテン語から派生し、数を数えることも指すが、これが1と0の論理を駆使する電子工学的な応用に関して使われるようになったのは戦後の話で、一般の目に触れたのは1970年代にデジタル時計が出現した以降だと記憶する。

最初の電子計算機とされるENIACも、電圧の値などを使ったアナログ式ではなく、電気が通っているかいないかで数値を数えるデジタル式(離散回路)で組み立てられ、情報理論を提唱したシャノンは情報の量をビットで表現しており、戦後のコンピューターや情報理論はデジタルを基本にしていたが、「電子式」とか「電卓」などという言葉は使われても、まだ「デジタル」という言葉が正面切って使われることはなかった。

真空管に代わってトランジスターが用いられ、さらには集積回路(IC)がデジタル方式で動くようになり、1971年には最初のマイクロプロセッサー(インテル4004)が出され、卓上電子式計算機が売り出されたが、まだデジタルという言葉は使われなかった。

文字盤の上を針で時刻を指す従来型の時計や数字が数値盤で示される機械式の時計に代わり、電子式の表示盤を使ったデジタル時計が発売されたのは1970年代で、80年代には電卓やデジタル式腕時計を売り物にするカシオが「デジタルはカシオ」とCMを打ち始めて、少しずつこの言葉が認知されるようになった。

コンピューターがデジタルであることは自明だったが、デジタルであることよりその利用価値が問題になり、コンピューター以外の家電や従来の道具がデジタルで換骨奪胎して飛躍的に便利になったりしないと、なかなか一般人はデジタルの効用には気づいてくれない。

1990年代にパソコンの性能が向上して、文字以外に画像や映像、音声を扱えるようになって、テレビや本の真似をし始めると人々は関心を示し始め、インターネットにつながることで電話よりインパクトのあるメディアとしての認知が進んだ。

新しい何かが起きた時、人はその原因となった事象を理解することはなく、それによって起きた変化で、その背後にある原因に行き当たるようになる。デジタルも1と0から始めて一から原理や応用を説いても誰も見向いてはくれまい。


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極端な話、映画「マグラダのマリア」を観て膝を打ったが、キリスト教が普及し始めたのは、何もキリストの教えがすばらしいと人々が理解したからではなく、彼が死者を蘇らすなどの奇蹟を起こしたからだ。そうした日常を超えた変化を知った人が、その周りに集まってその原因となる考えに馴染んでから、その後に自ら変化を起こしていくのだ。

デジタルの普及も、自動車や電話などの昔のメディアの普及に重ね合わせて考えれば分かるが、国が主導して大声をあげてもだめで、そうした変化の土台にあたる道路やネットワークインフラを公的なパワーで整備し、その効用を活用してくれる民間の自動車やデバイスを作りやすい環境を整え、人々を呼び込みその気にさせるのは誰かに任せた方がいい。

スティーブ・ジョブズはデジタルを普及させたかったわけでも、パソコンを売って儲けたかったわけでもない(少しはあったろうが)。自分が信じる美しい何かを実現し、それを他人と共有したいという強い思いで製品を作り、それに共感した人々が世界を変えたのだ。

そもそもデジタルが必要かという根本論はあるにしても、世界のトレンドをデジタルが支えていることは確かで、その時代変革をどう捉えて国や人々の幸せに結びつけられるかは世界共通の話題だろう。他国より後れているという論議ばかりでなく、実際はそれを使って人間社会や個人の自由をどう新しい時代に捉え直すか? というテクノロジー以前のビジョンの論議や認識なしに、ともかく後れて不便だから儲けたいからと騒ぐのは本末転倒だ。

これまでの歴史を大きく変えてきたのはテクノロジーだが、それらが出現した理由や、それが社会にどう受け入れられ、人々の想像力を変えていったかという事例はいくつもあり、デジタルについても同様の論議が可能だろう。

もちろん、こうした理想論や形態論ばかりでなく、政府が情報化し社会全体が便利で幸せになるために具体的に政府機関を作ったり広報したりするのはかまわない。ただ、なぜいまデジタルを問題にするのか? というそれ以前の論議をまるでしないで騒ぐのは、百害あって一利なしなのではないだろうか。

連載:人々はテレビを必要としないだろう
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文=服部 桂

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