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2021.11.05

「周りは欲張り。僕は、ただ……」松山英樹が重圧のなかで明かした本心

プロゴルファー 松山英樹(撮影=高須 力)


1992年2月生まれの松山がクラブを本格的に握ったのはまだ4歳のときだった。社会人時代にゴルフを始め、たちまちトップアマになった父・幹男さんに連れられて向かった打ちっぱなしの練習場で、「僕もやりたい」と打席に足を踏み入れたのが始まりだった。

当時、ジュニアゴルフが決して盛んでなかった愛媛県の出身。プロの指導者に習うでもなく、スクールに入るでもなく、彼は研究熱心な父の教えで育った。小学校入学後もゴルフに熱心な友人は皆無で、自宅の部屋に敷き詰められたカーペットの上で素振りや、アプローチ、パターの練習が何よりの遊びであり、彼のゴルフの原点だった。

小学校1年生の夏休みの最後、実際のゴルフコースで初めて18ホールを回った。松山市内にある奥道後ゴルフクラブ。美しい瀬戸内海と小高い山に挟まれた地元の名門クラブがゴルフ少年を受け入れてくれた。隣にはもちろん父がいて、「僕は男の子だから」とホールまでの距離が短い女性用のティイングエリアではなく、一般男性用のティから力いっぱいクラブを振った。

中学2年でお隣の高知県、明徳義塾に転校してから、ゴルフ部での生活が続いた学生時代。将来はプロになることを淡く夢見てはいたが、毎日1球でも多くボールを打つこと、ゴルフ場に長いあいだ身を置くこと自体が彼の生きがいと言えた。

19歳でアジア人初のオーガスタの表彰式


アスリートにとって、自分が選んだ道を突き進み、抜きんでた存在になるのは、幼いころからのそんな至福の時間を長く延ばすための手段でもある。敗れた多くの者たちの思いが重なり、自分の夢が応援してくれる他人の夢にもなる。松山の場合も、いつしかゴルフをプレイする理由の何割かを使命感が占めるようになっていった。

実は松山は必ずしも最初から“世界レベル”といえる存在ではなく、アマチュア時代に初めて日の丸を背負ったのは高校2年生のときだった。現在、トッププレイヤーとして活躍するプロのなかでは早い部類ではない。オーストラリアで行われた世界アマチュアチーム選手権という大会に国別代表の一員として出場。個人成績は137位という散々なもので、日本の選抜メンバーのうち最下位の成績だった。

運命のいたずらだったか。それがスターダムに立った途端、彼の背中には重さを伴う大きな何かが覆いかぶさった。

2011年、19歳のアマチュアとして初出場した男子メジャー・マスターズ。その1カ月前、在籍していた東北福祉大学のある宮城県仙台市は被災地になった。地震発生時、オーストラリアで合宿中だった松山は帰国後数日間、避難所生活を経験。そして、一時は出場を危ぶまれた晴れ舞台でアジア出身選手として初めてローアマチュアのタイトルを獲得する。格式高いオーガスタナショナルゴルフクラブの表彰式に迎えられた最初の日本人ゴルファーになった。


2011年4月、海外メジャー「マスターズ」で27位となりアジア勢初のローアマチュア(アマチュア選手最高成績)となる。(Photo by Andrew Redington/Getty Images)
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文=桂川洋一 編集=石橋俊澄

この記事は 「Forbes JAPAN No.088 2021年12月号(2021/10/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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