田坂広志の「深き思索、静かな気づき」

中国の前漢時代の書『淮南子』に「塞翁が馬」の故事がある。「中国北辺の老人の飼っていた馬が逃げたが、後に立派な馬を連れて帰ってきた。老人の息子がその馬から落ちて足を折ったが、そのために戦争に行かずにすんだ」との故事であるが、人生の幸運と不運は人智では分からない、との教えでもある。

これは、誰もが知っている故事であり、諺であるが、同様の諺に「禍福は糾える縄の如し」というものもある。この言葉は、幸運と不運は交互にやってくるという人生の理を教えている。

こう述べると、これらの諺に深く頷かれる年配の読者も多いと思うが、筆者が70年を越える歳月を歩み、様々な順境も逆境も体験して感じる人生の理は、むしろ、次の言葉である。

幸運は、不運の姿をしてやってくる。

実際、筆者の人生を顧みるならば、当初、「なぜ、このような不運が起こったのか!」と嘆くような出来事が、それから何年もの歳月を歩んで振り返るとき、「ああ、あの出来事のお陰で、このように有り難い道を歩むことができた」と思えることが大半である。

例えば、筆者は大学院に進み、いずれ大学に残って研究者の道を歩むことを願っていたが、学位を得ても大学にポストが無く、深い挫折感を抱いて民間企業に就職した。しかし、そのお陰で、大学では決して身につけることのできない能力を磨くことができ、さらには、シンクタンクの設立やダボス会議での活動など、貴重な仕事を体験することができた。

また、32歳のときには、生死の境の大病を患い、文字通り、地獄の底を這うような苦渋の体験を与えられた。しかし、そのお陰で、未熟な人間ながら、揺らがぬ死生観を定めることができ、「いつ死んでも悔いが無い」という覚悟と、「いま、この瞬間を生き切る」という生き方を掴むことができた。

これ以外にも、筆者の人生には、「幸運は、不運の姿をしてやってくる」という体験は、数え切れぬほどあるが、実は、こうした体験を持っているのは、決して筆者だけではないだろう。

おそらく、この随想を読まれる読者の多くも、不運に見えた出来事が、実は、幸運であったという体験を、いくつも持たれているのではないだろうか。

例えば、人生で与えられた苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故など、様々な逆境を振り返るとき、

「あの苦労のお陰で、大切なことを学べた」

「あの失敗のお陰で、成長することができた」

「あの挫折のお陰で、この道へと導かれた」

といった深い感懐を抱く人は、決して少なくないだろう。

されば、そうした読者には、一度、自身の人生全体を振り返り、「幸運は、不運の姿をしてやってきた」という体験の棚卸しをされることを勧めたい。
 

文=田坂広志

田坂広志の「深き思索、静かな気づき」
VOL.64

21世紀の「利他主義」

VOL.1

なぜ、「集団的無責任状況」が生じるのか

PICK UP

あなたにおすすめ