カーン博士は1970年代、オランダにあったウラン濃縮関連企業で働き、濃縮技術を盗み出した。パキスタンは1998年、初の核実験を行った。このとき、米国代表団が偶然、平壌にいた。代表団と面会した金桂寛外務次官が満面の笑みをたたえながら、「あなた方、ニュースを聞きましたか」と語りかけ、パキスタンでの核実験が成功したと伝えたという。
パキスタンと北朝鮮は1993年末のベナジール・ブッド首相の訪朝を契機に急速に接近。北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ノドン」をパキスタンに売却する契約を結んだ。その後、パキスタンの財政が悪化したことから、「核とミサイル」の物々交換に発展。パキスタンは核実験直後に、カーン博士が関与したウランを濃縮する遠心分離機のサンプルと設計図を北朝鮮に提供したとされる。カーン博士が創設した「核の闇市場」の顧客には、リビアやイランもいた。
日本政府は当時、「核の闇市場」の情報収集に血眼になった。カーン博士が提供したウラン濃縮による核開発は、2002年10月のケリー米国務次官補の訪朝を契機に表面化。日本政府は、北朝鮮がどの程度のウラン濃縮技術を手に入れ、核開発をどこまで進めているのかを探ろうとした。パキスタン政府に対し、カーン博士との面会も申し入れた。米国もカーン博士の事情聴取を試みていた。
これに対し、当時のムシャラフ政権が下した回答は「カーン博士の軟禁」だった。パキスタンは当時、米国による対アフガニスタン戦争に巻き込まれていた。米国は世界同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンの引き渡しを、アフガニスタンを支配していたタリバンに要求。拒否されたことでアフガニスタンに侵攻した。タリバンはパキスタンと密接な関係にあり、米国はムシャラフ政権にアフガニスタン戦争への協力を要求。拒否すれば、パキスタンに攻撃を加えかねないほどの勢いだったとされる。
このため、ムシャラフ政権は「パキスタンの原爆の父」とされ、国民的英雄だったカーン博士を放置できなくなった。ただ、日米などが求めた「カーン博士との面会」は断った。イスラマバードのカーン博士の自宅は高い塀で覆われ、外部から中の様子はうかがえなかった。政府が常に、自宅周辺を厳重に警備していた。軟禁措置は2009年ごろまで続いた。軟禁措置が解かれても、カーン博士と外国政府関係者の接触制限は続いた。パキスタン政府は、軟禁措置を通じて、「核の不拡散」をアピールした。カーン博士が接触できないのは、日本や米国だけではなく、イランや北朝鮮も同様だと言いたかったわけだ。