松下電器産業からハーバード・ビジネス・スクールへMBA留学。その後、ボストンコンサルティンググループを経て、アップルコンピュータへ。さらにコンパックコンピュータに転じると、会社がヒューレット・パッカードと合併。45歳で6000人企業の日本ヒューレット・パッカードの社長に抜擢されました。
その後、当時の産業再生機構に請われて社長兼COOとしてダイエーの再建を任されます。49歳で日本マイクロソフトに移り、10年にわたって社長や会長を歴任して、会社を大きく成長させました。そして2017年、社名の変わっていた古巣へ役員として復帰したのです。
毎日が嫌で嫌でしょうがなかった
まさに華麗なキャリアそのもので、最初からさぞや恵まれた環境で過ごしていたのかと思いきや、まったく違いました。樋口さんは工学部の出身ですが、松下電器での最初の配属は、おそらく誰も希望していなかった、予想もしないような部門への配属だったのです。
「溶接機事業部でした。実はこれはショックな配属でしてね。技術的にはほとんど成熟している職場。しかも当時は、いわゆる典型的な3K、きつい、汚い、危険な職場だったからです」
出社すると、つま先に鉄芯の入った重たい安全靴をはき、通常の作業着の上になめし革製の分厚い防護服を着て、その上に皮地のエプロンを着けます。真夏は蒸し風呂のように汗だくになりました。
「実験や評価のために長時間溶接を続けていると、金属粒子が容赦なく身体に飛び散り、眼鏡はすぐにダメになります。眼鏡を買い換えるための眼鏡手当が支給されていたくらいでした」
1日中作業すると、全身は粉塵だらけで真っ黒。鼻の中までです。しかも夜帰宅してからも、昼間に見続けた閃光で目が焼け、涙がこぼれて眠ることができません。
「厳しかったですね。最初は毎日が嫌で嫌でしょうがなかった。でも、そのうち腹をくくるんです。配属された以上は、この道でプロになるんだと。そして結果的に、この配属がよかったことが後になってわかるんです」
華やかな仕事をしたいと考える人は少なくありません。不本意な配属ともなれば、誰でも逃げてしまいたくなるもの。日々を充実させられないのではないか。成長できないのではないか。他の職場に配属された仲間たちに置いていかれるのではないか。ともすれば考え方も後ろ向きになってしまう。
しかし、振り返ってみると、決してそんなことはなかったというのです。
当時、花形だったのは、ビデオやテレビなどの事業部でした。そこにはひとつの製品に技術者が200人といった大規模な開発体制が敷かれていました。
「ところが、溶接機は小さな事業部。開発なんて3人程度です。だから電気回路だけでなく、箱の筐体(きょうたい)の設計から何から全部やらなければいけなかった。お客さまからクレームが入ったら飛んでいって直す。セールスのアシストで技術者として同行する」
言ってみれば、小さな事業の経営を、いろんなファンクションとしてちょっとずつ勉強しながら経験できたようなものだったというのです。