──動いた結果のひとつとして『DIVOC-12』の『名もなき一篇・アンナ』が生まれた?
コロナ禍で日本の映画界はとても大きな打撃を受けました。その苦しいなかで、先輩監督たちが「SAVE the CINEMA」や「Mini Theater Park」など、映画を支援する行動を起こしているのを見ていたんです。
ところが自分は、賛同だけで具体的なアクションができていない。その状態に悩んでいた時期に、『DIVOC-12』のプロデューサーに声をかけてもらって参加することにしました。
「DIVOC-12」プロジェクト。日本映画界を牽引する12人の監督が、それぞれ10分間の物語を紡ぎ出す (c)2021 Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc. All rights reserved.
ただ、作品づくりはすごく難産でした。今年の6月に撮影したのですが、自分のなかで物語がまとまったのはクランクインの10日前ぐらいでした。ずっと心の中にモヤモヤがあったのです。
──モヤモヤというのは?
映画を含めてどの芸術も、時代を映す「鏡」のような側面がある。例外なく、今回の作品もコロナ禍という時代をしっかり映すものであるべきだと思ったものの、これだというアイデアがなかなか思い浮かばなかった。日常が変わっていくなかで、自分の感情と、撮りたいものとがなかなか結びつかなかった。
『名もなき一篇・アンナ』より (c)2021 Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc. All rights reserved.
──『名もなき一篇・アンナ』は喪失がテーマと聞きました。コロナ禍でのロケは大変だったのでは?
コロナによって自分たちが失ってしまったものと折り合いをつける10分間にしたいと思ったんです。沖縄の海や京都の街並みなど、僕たちが行けなくなってしまっている場所を撮りたかった。
関係者全員がPCR検査を受けて、陰性を確認してから撮影に入りました。ただそれ以上に、沖縄から、京都、東京、函館という5000キロの距離を移動しながら3日間で撮り終えなくてはいけなかったのが大変でしたね。各ロケ地で5時間ぐらい撮影して移動、その繰り返しでしたから。
でも、とにかく現地に行くことが大事だった。いまの時代の、この瞬間を残すために。
『名もなき一篇・アンナ』より (c)2021 Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc. All rights reserved.
是枝監督の存在が励みに
──コロナ禍でも「止まると愚痴が出るから動く」というマインドに切り替えられたのは、若いときの経験から?
僕は26歳のときに『オー!ファーザー』で長編映画デビューするまでは、自主制作映画をずっと撮っていました。その頃は、とにかく「営業」していましたね。自主映画の興行で名刺をもらったプロデューサー全員に、「次はこれをつくったので見てください!」と連絡して。ある日プロデューサーから呼び出しがかかって仕事の話かと喜んでいたら、ひたすら相手の愚痴を聞いて終わりだったこともありました(笑)。
──そのときに培った営業力がいまも生きている?
かなりハードだったので、もう二度とできないですね。20代は、チャンスというものはどう手に入れるのか、その方法を手探りで学んでいたんだと思います。お金にならないことばかりでしたけど、あの時期があるから、いまがあります。