佇まいには「普段の生活」が滲み出る 松平健流、成功への流儀 

Jun Sato/Getty Images

東京2020オリンピックの閉会式で、もしかすると「マツケンサンバ」が登場するのではないかと、SNSなどで盛り上がっていたのを記憶している人も多いのではないでしょうか。

絢爛豪華な着物と髷を結った松平健さんが踊る「マツケンサンバ」は、実現していれば、確かに海外の人たちの度肝を抜いたに違いありません。

いまや、すっかり「マツケン」として有名になっている松平健さんですが、もともとは日本を代表する時代劇のスター。髷を結った姿でテレビや舞台にと活躍してきました。

筆者も、インタビューで向かい合ったときの独特の風格と迫力は、いまもよく覚えています。

いきなり勝新太郎さんの弟子に


実は、松平さんのスターに登り詰めるまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。

育ったのは、愛知県の貧しい家庭。松平さんは工業高校を中退後、寿司屋で見習いの職人として働いていました。そのときに観た映画『太平洋ひとりぼっち』が、運命を変えることになります。主演の石原裕次郎さんに憧れ、上京するのです。17歳でした。

「東京に着いてまず最初に訪ねたのが、石原裕次郎さんの自宅でした。なんとしてでも、『石原プロ』に入りたくて、何日も自宅の前でじっと待ち続けたんですが、スタッフの方に、いまは募集していないとあっさり断られてしまったんです。本当に悔しかった」

その後、八百屋で住み込みの店員などをしながら、劇団に通っていました。ビッグチャンスは、東京に出て3年経って訪れます。勝新太郎さんとの出会いでした。

「勝プロ(勝新太郎が設立した事務所)のプロデューサーに、勝さんに会ってみないかと言われたとき、会えば仕事をもらえると思ったんです。後日、都内のテレビ局でご本人にお会いしました。そりゃ、緊張しました。時代を築いたスターですから」

初対面で「京都に来られるか」と勝さんに聞かれます。松平さんは間髪を入れず「はい」とだけ答えました。しかし、次に勝さんから出てきたのは、「しばらくオレについて、見ていろ」という予想しなかった言葉でした。

「まだ端役をいただけるだけだと思っていたんです。その役をきっかけに大成しようという意気込みでした。そしたらそんな言葉をいただいて驚きました。まさかその場で弟子につくことになるとは考えてもいませんでしたから」

驚く一方で、嬉しかったともいいます。勝さんからはそのとき、「目がいい、目は化粧できねぇからな」と言われます。「飢えた目をしている」と。

「家族の反対を押し切っての上京だったので、成功したいという思いが強かったんですね、きっと」

勝さんの肝煎りで、勝さん主演の『座頭市物語』にすぐに出演を果たします。しかし、勝さんからは、演技に対してのアドバイスなどはほとんどなかったといいます。

「芝居は間だ、ということは言われていましたが、それ以外はとにかく『オレの真似をしろ。真似をしても、タイプが違えば人真似とは思われないから大丈夫だ』と。なかなか口では教えてくれないんです。だから、見て覚えるしかありませんでした」

立ち回りのスピードも、イメージで叩き込んだといいます。松平さんの殺陣はすべてこのときの勝さんの姿が手本になっています。

「本当に、見て覚えただけなので、基本、私の殺陣は我流なんです」

付き人として勝さんの身の回りの世話などをしながら、見よう見まねで演技術を盗む日々。仕事が終わった後には眠る間も惜しんで、勝プロの稽古場で勝さんの立ち回りを思い出しながら、独り、朝まで殺陣の練習に励んだといいます。
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文=上阪 徹

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