アスリート像の常識を変えた、シモーネ・バイルズのリーダー的プレゼンス


決断には大坂なおみからの刺激も


彼女もある程度想定していたことだろうが、途中棄権という決断に対しては、激しい非難の声も挙がった。

例えばテキサス州の副検事長は、「身勝手で子供じみた国家の恥」とツイートした。そのツイートには、1996年のアトランタ五輪で、足首を痛めながらも跳馬に挑み米国チームを優勝に導いたケリー・ストラッグ選手の動画が添えられていた。後にこの副検事長は謝罪を余儀なくされたが(ツイートも削除済み)、このように苦しみに耐え、競技に身を捧げるアスリートの姿を求める声が、未だ存在するのも事実だ。

しかし自身のコンディションが悪い中で、無理に戦って自らに負けのクレジットを課す必要はないだろう。それに、非常に大きな危険が簡単に予測されるのであれば、止めておくことも正しい決断である。目先の勝利のためだけでなく、先の長い自分の人生においても大事な選択だ。たとえ自らのすべてを捧げて試合に出場したとしても、怪我をして選手として再起不能になったり、日常生活をまともに送れないようになったりすれば、誰も喜ばないし、幸せにもならない。

実際、彼女が悩まされていたtwisty(ツイスティ)は、今後の人生を失うような怪我の可能性さえ秘めている現象だ。これは、体操選手が空中で「迷子」になったように感じる精神的な現象で、バイルズ選手の場合は、心と身体が分離しているように感じていたという。つまり、技を失敗することによる失点だけでなく、着地を間違えて硬い床に体を叩きつけられ、大怪我をするリスクもある。

多くの人は、すでに怪我を負った人が棄権をしても批判しない。「自らを犠牲にし、チームやオリンピックにすべてを捧げた」と美談にすることもあるだろう。しかし、負の状態(怪我や明らかな病状)が可視化されていない精神的な現象に関しては「認めない」もしくは「認められない」という、何とも不健康な思想が存在している。

そんな環境下でもバイルズ選手が棄権を決め、自ら語った背景には、テニスプレイヤーの大坂なおみ選手の存在がある。米紙デイリーのイアン・ハーバート記者(@ianherbs)のツイッターで、全仏オープンで試合を辞退した大坂選手に刺激を受けたと語ったことが投稿されている。

銅メダルで「自分を誇りに思うことができた」



Ali Atmaca/Anadolu Agency via Getty Images

その後バイルズ選手は、8月3日の体操女子種目別平均台の決勝に参加。平均台を前にしたその表情と姿に、なんとも言えない孤高の姿と緊張感を感じたのは筆者だけではないはずだ。

演技を終えて無事に着地したとき、嬉しそうにほっとした表情を浮かべ、笑顔で手を振る彼女の達成感と安堵感は、従来の完璧な演技ができた時以上だったことだろう。そして、何にも替えられない価値を持つ、特別な銅メダルを手にした。
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文=日野江都子 編集=田中友梨

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