生体電池になる私たちの身体についての覚え書き

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機械が私たちを選別するように、私たちも機械を選別しなければならない


むろん、現実は現実であり、夢でなければSFでもない。思考実験は思考実験であり、現実そのものではありえない。しかし、SFや思考実験を、警鐘として、ある種の実現可能なリスクのパターンとして、念頭に置きながら現実を生きていくことは意味のないことではない。私たちは、何のために、どこへ、どのようにして向かっているのか、つねに確認し点検し再検討し続けなければ、いつでも足を踏み外しうる。

テクノロジーは私たちに力を与える。私たちはそれを使うことができる。しかし適切に使うことができるかどうかはわからない。うまく使うためのやり方もあれば、そうでないやり方もあるだろう。生体電池になった私たちは、電池のいらないペースメーカーを埋め込むことができるようになる。そのすぐあとで、コンピューターも埋め込むことができるようになるだろう。そのコンピューターはクラウド上でつながっている。クラウドの電源もまた、私たち自身かもしれない。そのとき私たちは、私たち自身の手でテクノロジーをコントロールしきれていると言えるだろうか。そのとき私たちは、テクノロジーを使役しているのは私たち自身であり、私たちがテクノロジーに使役されているわけではないのだと、断言することができるだろうか。私にはわからない。

『マトリックス』の中で、トリニティーはこんなことを言っている。「道も知ってるし、先にある物も正確に知ってる。そして、それがあなたの求めるものじゃないことも分かってる」

機械が私たちを選別するのなら、私たちもまた、可能な限り機械を選別しなければならない──あるいはそれもまた、『マトリックス』で描かれたような機械の意志であったとしても。

私たちは、テクノロジーを愛し、尊び、崇拝する一方で、同時にそれを、正しく恐れなければならない。恐れ、怯え、慄きつつ、つねに引き返すことのできる余地を残しながら、小さな選択を行い、失敗し、元いた場所に立ち返り、自分が正気であるかどうか、自分がかつて持っていた当初の欲望に忠実であるかどうか、自分が正しい場所に立っているかどうか、点検し、捨てるべきものを捨てながら、たとえそれが幻想に過ぎずとも、自分の意志と呼びうる、手触りのある何かを残しながら、フィクションとリアルのあいだで、どちらにつくこともなく、ためらいながら生きていくほかない。
私は私の物語を手放したくない、私はいま・ここにある私の身体感覚からテクノロジーを切り離したくない、あるいは、いま・ここにある私の身体感覚をテクノロジーを含めた何者かによって奪われたくない、というようなことを私は思っているのかもしれない。

ネオは、「自分が起きてるのかまだ寝てるのか、ときどきわからなくなることがある」と言っていた。私にもその気持ちはよくわかる。現実で夢を構成し、夢を見たままで現実を生きること。わからなさのなか、手探りで、ゆっくりと進むこと。それがたとえ、前でなければ上でもなく、同じ場所をぐるぐると回っているにすぎなかったとしても。何かを断言することは難しく、いまではひとまず私はそんな風に感じている。この連載はそういう態度で書かれている。

連載:リアルとフィクションのはざまで
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文=樋口恭介

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