生体電池になる私たちの身体についての覚え書き

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『マトリックス』。ウォシャウスキー姉妹によって制作されたそのサイバーパンクSF映画の大筋は、機械を稼働させるための生体電池として管理される人類の一部が、機械の見せる夢から現実に目覚め、機械に対して反旗を翻す、というものである。

20世紀末に第一作が公開されたそのシリーズが鮮明に映し出した悪夢的なビジョン──人間が単なる電池、単なる演算資源、単なる養分として扱われ、機械の見せる夢の中で一生を過ごすという強烈なビジョン──には、ワールドワイドウェブが広がり始めた時代感覚と呼応した恐怖と畏怖、そして驚き──センス・オブ・ワンダー──の魅力があり、『マトリックス』は世界中で人気を博し、SF映画の金字塔となった。

私たちはSFとしての、あるいは単にフィクションとしての『マトリックス』の世界を恐れ、打ちのめされる。だが私たちはそれがフィクションでしかないことを知っている。映画が終わり、光が途切れれば、闇の中にふたたび日常が溶け出し始める。光の中で動く映像の数々がどれだけリアリティを感じさせるものだったとしても、私たちはそれが現実そのものではないことをちゃんとわかっている。それは虚構だ、それは嘘だ、と、どこかで安心しながら、安全圏で私たちは恐怖を楽しむ。

しかし、科学的な視点から見るとどうだろうか? 本当に、その悪夢は悪夢のままにとどまるものなのだろうか?

2019年の『エスクァイア』の見解では、「もちろん、ありえない」というのが答えである。同誌の取材によれば、カリフォルニア工科大学のロバート・ハート博士は「過去数十年のSF映画に出てきた中で、最悪のモノです」と答えており、同誌は、「理論上は、ある種のSF用語を駆使すれば、人間をマシンの動力として使える可能性は確かにある」一方で、そこで得られる電力はあまりに微弱なものであるために、「たとえ未来のロボットたちが、核融合だかなんだかを使って人間から必要なエネルギーを得ようと考えたとしても、やはりその計画は愚の骨頂と言わざるをえません」と結論づけている(*1)

そういうわけで、私たちはひとまず、『マトリックス』を単なるフィクションとしてのみとらえ、安心して、私たちの「この現実」を生きていくことができる。少なくとも2019年の時点ではそうだったと言える。

*1 映画『マトリックス』誕生20周年記念 ― 科学者へ質問「人間を動力源にしてロボットを動かすことは可能か」(https://www.esquire.com/jp/entertainment/movies/g27068042/the-matrix-human-batteries-plot-hole-explained-keanu-reeves/
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文=樋口恭介

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