栄えある第一回の三ツ星店に選ばれたのが「かんだ」、「カンテサンス」、「小十」、「ジョエル・ロブション」、「すきやばし次郎」、「鮨 水谷」、「濱田家」、「ロオジエ」(五十音順)の8軒だったと聞けば、懐かしく思い出す向きも多いだろう。
欧米で成功しなければ
その時点で、「小十」店主の奥田 透氏は、若干37歳だった。地元静岡の割烹旅館での仕事を皮きりに、京都の老舗料亭で修業したのち、徳島「青柳」の小山裕久氏のもとで一から料理を学んだ。「青柳そごう店」の支配人兼料理長を任されたのち、29歳で静岡市で独立。33歳で銀座8丁目に、陶芸家の西岡小十の名にあやかった「銀座小十」という小さな店を構えた。
その4年後、突然にミシュラン事務局から、三ツ星を授与したいという電話がかかってきたという。
華やかな授賞式に出席しても、嬉しさや誇らしさよりも、「なぜ自分が三ツ星に?」という驚きのほうが強く、「これは、何かせよ、行動しろ、という神からの啓示ではないだろうかと思った」という。考えに考えて出した結論はこうだった。
「フランス料理も中国料理もイタリア料理も、世界中どこでも食べられる、いわば“世界食”です。日本人シェフが東京で作るフレンチがれっきとしたフランス料理であり、カリフォルニアでアメリカ人が作るイタリアンもまた、イタリア料理であるように。ところが、日本料理だけは今だに、素材が何より大切だから日本でなければ作れない、もしくは文化的背景や繊細な感性が必要だから、日本人でなければ作れないと、頑なに思われています。
現に、パリにフランス人が作る懐石料理の店もないし、ニューヨークで、外国人が握る寿司を、日本人は認めていません。これは何かがおかしい。日本料理は、本来、世界料理になれるグローバリティのある料理のはずなのに……。いや、それは、誰もちゃんとしたものを見せてこなかったからにちがいない。ならば、自分がそれをやってやろうじゃないか、それこそが自分に課せられた使命ではないかと思いました」
37歳の血気盛んな青年の心にともった炎は、日に日に大きくなっていった。
三ツ星を取得したあと、アジアを中心に海外に店を出さないかと誘われもしたが、「アジアじゃダメだ。欧米で成功しなければ、日本人は認めないから」と考えていた。
「場所は、日本文化にリスペクトがあり、我々もその食文化をリスペクトしている、フランス・パリが本丸だろうと、すぐに決まりました。パリの魚では日本料理はやりにくいぞ、と、皆に言われましたが、障害が大きければ大きいほど燃えるたちなんですね」
幸い、縁あって出会った「銀座奥田」のオーナーもチャレンジ精神旺盛で、パリ店の経営は全面に引き受けてくれた。