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2021.08.01 17:00

ファンを大事にする「再建請け負人」がJ3でやろうとしていること


就任した2001年のマリノスはJ1残留争いを強いられていた。マリノス、東京ヴェルディ、アビスパ福岡のいずれかがJ2へ降格する状況で、運命の最終節を迎えた。

敵地でヴィッセル神戸と1-1で引き分けて、ヴェルディとともにかろうじて残留を決めた帰路。新幹線の車中で目の当たりにした光景が、忘れられないという。

「新幹線がお祭り騒ぎになっていてね。サポーターも4000人から5000人ぐらい駆けつけてくれて、みなさんが残留できてよかった、と。日産自動車からも多くの役員が神戸まで来ていたし、生きていてよかったと言わんばかりにみんなで喜び合いました」

2003シーズンには元日本代表監督の岡田武史氏を監督として招へい。翌2004シーズンを含めてJ1リーグ連覇を達成し、その後2007年5月に左伴は社長を退任した。2006年度の決算では、マリノスは経常利益で4600万円の黒字を計上していた。

退任後は日産自動車の孫会社にあたる日産プリンス神奈川販売の執行役員を務めていた左伴は、2008年10月に突如として退職する。湘南から受けた常務取締役就任へのオファー受諾を契機として、プロ経営者になる決意を固めたのだ。

「車づくりに携わる何万、何十万もの方々が、どうすれば潤いのある時間を、何か楽しみのある時間を見つけられるのかを考えてきました。マリノスの社長になり、自分の周りにいる方々の喜ぶ顔がよく見え、たまにサポーターに叩かれるとか、あるいはスポンサーさんに怒られたりもしますけど、それでもこの業界で『左伴がいてくれてよかった』と感謝されることが僕の生きがいになっていったんだと思います」

左伴の写真

3度のJ1昇格を果たした湘南のチーム経営の土台作りに貢献し、そして2015年1月に退職する。

「2014年にJ1昇格を決めたときの湘南のサッカーを見ていて、これはJ1から落ちずに戦い続けられる───、と思ったら少し余裕ができたんですよね。加えて、出資会社からの資金面も安定した。左伴と言えばお金集めの人とか、M&A屋さんとか、あとは日産自動車との関係とか、どちらかと言うとお金の面で期待されていた部分が多かった。なので、そこのめどがついたということですね」

湘南を退職した理由をこう振り返った左伴は、当時59歳。クラブ経営コンサルタントをスタートさせようかと考えていた矢先に清水エスパルスから連絡が入った。

清水を傘下におさめる鈴与ホールディングスの鈴木與平会長が直々に社長への就任を要請した。断る理由はどこにも見当たらなかった。

「湘南では常務という立場から、それなりに担当のフィールドがあって、強化に関してはまったく見ていなかった。清水ではすべてを僕に任せると言ってくれたので、これは一度しっかりとチャレンジしなきゃいけない、という気持ちになりました」

社長に就任した2015年に、清水はクラブ史上で初めてJ2降格を喫した。外様の社長だった左伴は「よそ者」や、あるいは「サッカー王国のプライドを汚した」と批判を浴びながらも鈴木会長にかけあい、戦力を維持するための資金確保を取りつけた。

迎えた2016シーズンの最終節。敵地で徳島ヴォルティスに2-1で勝利した清水は、松本山雅FCと勝ち点84で並びながら得失点差で上回る2位でフィニッシュ。1年でのJ1復帰は、マリノスでの優勝の時を上回る感動だった。

「サポーターの方々に『徳島県を静岡県に変えてください』と頼んだら、5000人近くが弾丸ツアーで来てくれたんですよ。観客数が9700人ちょっとだったから半分以上で、本当にオレンジ色になった。マリノスの時は戦力的にも優勝して当たり前みたいなところがあったので、清水で復帰を決めた時の感動の方が大きかったですね。1年だけでいいのでと鈴与さんに倍のお金を出してもらって、あちこちで血をいっぱい出した過程が喜びに変わったんですね」

徳島から清水へ戻る帰路では、さらに驚く光景が左伴を待っていた。
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文=藤江直人

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