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J3のカターレ富山はいま、ノリに乗っている

東京五輪の開催に合わせて長期中断に入った明治安田生命J3リーグを、J2から降格して7シーズン目になる〈カターレ富山〉が初めて首位で折り返した。変貌を遂げているのはピッチ上だけではない。主要株主以外から初めて白羽の矢を立てられ、今年4月に就任した左伴繁雄(ひだりとも・しげお)社長による経営改革も見逃せない。横浜F・マリノスと清水エスパルスで社長を、湘南ベルマーレでは常務および専務を務めた経歴を持つ、日本のスポーツ界でも稀有な存在となる65歳のプロ経営者の素顔を追った。

始まりはマリノスの「建て直し」


Jリーグが10クラブで産声をあげてから今年で29年目になる。カテゴリーはJ1を頂点に3つ、クラブ数は40都道府県に「57」が存在するまでに拡大した。

当然ながらクラブの数だけ社長が存在する。責任企業から出向してくる形がほとんどだった黎明期に比べて、元日本代表でワールドカップの舞台でもゴールを決めたセレッソ大阪の森島晃寛社長をはじめとして、いまでは社長の経歴も多彩になった。

それでも、複数のクラブで社長を務めた人物は現状でたった一人しかいない。左伴がそうだ。

横浜F・マリノスの社長を皮切りに湘南ベルマーレの常務および専務、清水エスパルスの社長を務めた65歳の左伴は、今年4月からJ3カターレ富山の社長を務めている。

左伴の写真
左伴繁雄

2020年1月に清水を退任してから富山に出向くまでは、プロバスケットボールB3のベルテックス静岡のエグゼクティブスーパーバイザーを務めていた。日本のスポーツ界では稀有なプロ経営者として、請われて“移籍”を繰り返してきた左伴とはいったい何者なのか。

彼は、神奈川県立希望が丘高校では陸上部に所属し、男子4×100mリレーで当時の日本高校記録を樹立したメンバーのひとりだ。

「最初は走り高跳びの選手でしたけど、途中から足が速くなってリレーメンバーを務めました。希望が丘は陸上部が非常に強くてインターハイでも常連でしたが、サッカー部も僕たちの学年だけ強くて、1972年度の冬の全国高校選手権に西関東代表で初出場しました。両方が強い唯一の年代として、サッカー部の連中とは仲がよかったですね」

その後、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、1979年に入社した日産自動車では主に生産・物流畑を歩み、英国日産自動車製造の設立にも携わる。帰国後は本社生産管理部門や人事労務管理部門、研究開発部部門人事課長、そして人事部門主管を歴任。45歳だった2001年6月に日産自動車が出資していたマリノスの運営会社の代表取締役社長に就任した。当時のことを「オフサイドって何なの、という感じでした」と笑って振り返る。

「想像すらしていなかったですね。知っている選手と言えば中村俊輔だけ、という人間でしたから。僕は、日産自動車がV字回復するカルロス・ゴーンの時代の経営側のメンバーなんですけど、そのゴーンがマリノスだけは売るなと言うんです。日産の補填がなければ大赤字になってしまうのになぜと思ったら、2002年の日韓共催ワールドカップを日産がサッカークラブのオーナーで迎えたいと。そんなもんかなあと思っていたら、お前が社長で行って立て直してこいと言われて」

文=藤江直人

サッカー
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