33歳で文部省に命じられてイギリスに留学したときには、「自分の不安を解消できるものはロンドン中を探し歩いても見つかりそうにない」と、せっかく異国の土地に来たのに観光するでもなく、かといって文学の研究や書物を読むことにも熱が入らず、何もかも「つまらない」と感じていたようです。
とうとう文部省への報告書を白紙で出して、急遽、帰国を命じられる始末。漱石はロンドンで重度の神経衰弱、うつ状態に陥ってしまったのです。
しかしこの留学中に、漱石はひとつの大切な発見をしました。漱石が語ったナマの言葉をここに引用してみましょう。
『今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです』(同前)
つまり漱石は、「自分」というものがないままに、人の意見を鵜呑(うの)みにしたり人真似をしたりして、他人本位な生活を送っていることが、自己の内心の不安を形成しているのだという結論にたどり着いたわけです。上辺だけ取り繕うのではダメで、自分自身の価値基準というものを身に付けなくては、本当の安心は得られないということです。
自分に自信を与える「思考の転換」
「他人本位」という言葉に対抗するのは、「自己本位」という言葉です。漱石も「自己が主で、他は賓(ひん)である」という発想に行き着きます。
『私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。(中略)比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです』(同前)
漱石自身は、明治という文明開化の時代背景から、西洋人の考え方や文化に染まらなくても、自分は日本人として自分なりに生きればいいのだ、という結論に達したのですが、これは何も欧米と日本の対比に限ったことではありません。
現代の私たちに当てはめれば、とにかく人の尻馬に乗るのではなく、自分自身でものごとを考えること。「自分は自分の人生を生き、他人は他人の人生を生きるのだ」と考えればよいでしょう。
他人のあとに従って生きていても、安心と自信は付いてきません。たとえ誰かの意見を得意気に語ったとしても、それが本当に自分の血肉となったものでないかぎり、心のなかは不安だらけになってしまう。
結局のところ、誰しも自分の不安に対する答えを自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んでいかなくてはならないのです。
なぜなら、漱石が語っているとおり、「もし掘り当てることができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないから」です。
私が「みんなと同じ」では不幸になるとしきりに言うのは、まさにこれと同じ理由からなのです。
私たちは、自分の抱える不安の「もと」がいったいどこにあるのか、考え続けられるだけの強さを身につけなくてはならない。そのためには知識と見識が必要であり、「自分の頭で考える」という、それこそ「孤独」な習慣が必要なのです。
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