キャリア・教育

2021.07.09 19:00

情熱を持って取り組めば、自然に道は開けてくる──魚谷雅彦流キャリアの流儀

魚谷雅彦氏(David Fitzgerald /Getty Images)

魚谷雅彦氏(David Fitzgerald /Getty Images)

創業1872年、日本を代表する化粧品メーカー、資生堂。その社長として、戦後初めて外部から迎えられたのが、魚谷雅彦さんです。

魚谷さんは、新卒で大手生活用品メーカーのライオンに入社。米コロンビア大学に留学してMBAを取得し、史上最年少でブランドマネージャーに就任します。

その後、シティバンク、ヨーロッパの食品メーカーであるクラフト・ジャパン(現モンデリーズ・ジャパン)を経て、39歳で日本コカ・コーラの副社長になりました。そして7年後には、1兆円を超えると言われる巨大ビジネスを担う同社の社長に、日本人としては26年ぶりに就任したのです。

その日本コカ・コーラでは、「ジョージア 男のやすらぎキャンペーン」(1994〜99年)など、社会現象とも言われた宣伝戦略を次々に主導、マーケティングのプロとして華やかな経歴を積み重ねていきました。そして、2011年の独立を経て、2014年には資生堂という日本の伝統的な企業の経営トップに就任するという驚きの経歴が加わることになりました。

「毎度!」と元気な挨拶から始めた


魚谷さんは、書籍『外資系トップの仕事力―経営プロフェッショナルはいかに自分を磨いたか』のインタビューで、こう語っていました。

「キャリアについて、事前にしっかりと計画を立てる人がいるようです。でも、僕は決してそうじゃなかった。実際、行き当たりばったりです(笑)。好きなことをやろうとしてきただけです」

高校時代に英語の面白さと巡り合い、いずれは世界を飛び回るような国際的な仕事がしてみたいと考えていました。就職先として真っ先に思い浮かんだのは、総合商社。ところが当時、就職には学部指定があったため、文学部で学んでいた魚谷さんは選考試験すら受けられなかったのです。

次に希望したのは、留学できるチャンスのある会社。そして出合ったのが、ライオンでした。会社案内のパンフレットにも、ニューヨークのマンハッタンをイメージさせる写真が載っていて、「国際的な活躍の舞台がある」と紹介されていたといいます。

留学や国際的な仕事をイメージして入社しましたが、当時ライオンでは入社すると、全員3年間、営業に配属されることになっていました。

「消費財メーカーだから、『まずは営業現場を知らなくちゃ』という基本的な発想がありました」

魚谷さんは入社すると、大阪の小さな営業所に配属されました。そこからライトバンに販促資材を積んで、販売店を回る日々が始まります。

「仕事は販売店の手伝いから。当時はいまみたいなPOSシステムなんてないので、お店の床に座ってラベラーで値札貼ったりしてね。もう全然違う世界なんですよ、イメージと。あの会社案内は何だったんだって(笑)。『オレはこんなことをするために、この会社に入ったんじゃないぞ』と思うようになって」

自分の将来はどうなるのかと不安で、魚谷さんは入社した年の夏に年配の知り合いに相談します。昔からすぐに、いろいろな人に相談するタイプだったそうです。

「最初は叱られると思っていました。新入社員のくせに、君は何を甘いこと言っているんだと。ところが違った。君の気持ちは理解できる。前向きな気持ちがある人間ほど悩むもの。問題意識を持つことはいいことだと」

しかし、こうも言われました。

「まだ22歳。とにかく1年間ガムシャラに仕事をしてみたらどうか。1年経ってそれでも夢が実現できそうにないと思ったら、あらためて決断すればいい」

それを聞いた魚谷さんはこう思ったといいます。

「この言葉で、すーっと心がラクになりました。そうか、ひとまず1年間、目の前の仕事を気合いを入れてやってみようじゃないかと。

不思議なもので、気持ちを前向きに持つと何かが変わるものなんです。まずは『毎度!』と元気な挨拶から始めました。いきいきとやろうと。これだけで、取引先との関係性が変わった。元気なヤツだと何人もの(販売店の)社長が可愛がってくれて。こうなると、営業成績もグンと上がるわけです。仕事もどんどん面白くなった。

社内の評判も良くなったんでしょう。本来、留学試験を受ける資格は入社3年目なんですが、2年目で試験を受けさせてやったらどうだという話になって」
次ページ > 「お前、バンカーじゃないな」

文=上阪 徹

タグ:

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事