しかしそれが大きく変わったのは、ナチスのゲッベルス宣伝相が「大衆の扇動に有効」と目をつけて派手に「民族の祭典」として利用した1936年のベルリン五輪によってだった。ナチスがアテネからベルリンまでのルートを戦略的に調査できる聖火リレーが行われ、オリンピックは各国の国力をメダルの数で競うパワーゲームになった。
ベルリン・オリンピック開会式でのアドルフ・ヒトラー、ルドルフ・ヘスと後のイタリア王ウンベルト2世(Photo by Mondadori via Getty Images)
自分のイベントが一気に世界的に注目されたことに感動したクーベルタンは、ヒトラーを称賛して本国からは煙たがられ、女性を差別し五輪参加に反対するなどして、結局はIOCから去ることになるが、晩年はスイスでナチスの年金で暮らしていたという。
第二次大戦後もオリンピックは各国の国威発揚の場として拡大し続け、新しく参加したソ連が冷戦の核兵器開発競争で劣勢に立ち、国際的地位向上のためにオリンピックに目を付け、メダル獲得のためには手段を選ばずと、国がドーピングを奨励する結果にもなった。その後も航空路の発達も手伝うことで世界規模のイベントとして発展し、1984年のロサンゼルス五輪以降は国際的なテレビ中継やマーケティングを強化した、赤字から一転、儲かる一大商業イベント化している。
結局、オリンピックは近代の新しい世界システムが維持できるよう、国家主導型スポーツでスーパーマンが国家間で競って勝ち負けを争い、人殺しのないバーチャル戦争ゲームとして平和でない世界で平和を謳う、稀有のイベントだったと言っても過言ではないだろう。
次の時代のオリンピックを考えるべき
いまだコロナ禍が収まらない中で、感染拡大の危険を承知で安全安心を謳う今回のオリンピックは、国民の大半が支持しない危うく華のないイベントになってしまった。過去の東京オリンピックの成功体験を再現したいという政治的意図が見え隠れするが、たとえ様々な問題をクリアして開催しても、スポーツ大会として各国各選手が公平な条件で臨めるのかも見えず、IOCの貴族趣味が開催国を食いものにしていると批判が高まるばかりだ。
震災復興を掲げて裏金まで使って獲得した大会は、将来書かれる歴史にパンデミックや震災を乗り切った人類の英知といったポジティブなメッセージを残せるのか。せっかくの選手や関係者の勇気や善意は、正しく評価されるのだろうか?
オリンピック精神を疑う人はいないとしても、その前提となる組織や運営の問題や政治意図がからんでくると、善意の大会がそれを利用したい別の立場の道具にされてしまう。表面的に成功したとしても、未曽有の資金を注ぎ込んだだけで回収のできない、負の遺産のみが残りはしないか?
ここで問題なのは、オリンピック自体ではなく、オリンピックをいまの状況で行うメリットが本当にあるのか、無理をして強行することはメリットよりデメリットをもたらすのではないかという不安だろう。
これまで開催された大会にはいろいろ批判もあるが、これだけの規模で世界平和を訴え、現在は不十分とは言え、過去には経済効果もある程度発揮した点は評価してもいいだろう。
しかし残念なことに、これだけインターネットが普及し、情報や経済のグローバル化が格段に進んだ現在、100年以上前の近代化の装置としての一大イベントの枠組みは、いくら修正改良しても役に立たなくなってきているのではないか。