その仕掛け人は、尾張旭店で働くデリカ部門の太田典子さん。2019年5月から新作の惣菜開発から販売、SNS発信までを手がけ、スーパー界のカリスマ店員と言えるだろう。
おにぎりの米がほぼ見えず、大葉の上に大きな具材が盛られた「ほぼ具おにぎり」(298円)や、上に桃がまるごと一個乗った桃のスムージー「だって桃が好きだもも」(798円)など、インパクトの強い商品を生み出し続け、ヒットしている。
生鮮館やまひこ尾張旭店は、名古屋市の中心街から車で40分弱。決して立地が良いわけではない小型スーパーながら、一日の売上は惣菜だけで平日100万円、休日200万円に上る。
実は、太田さんは元実業団のハンドボール選手。けがで選手生命を絶たれ、2003年に山彦に入社。途中5年間は別のスーパーで働くため退社したものの、12年から再び入社した。太田さんが手がけるやまひこの惣菜には一体、どんな秘密があるのだろうか──。本人を直撃した。
絶望の選手生命 スーパー入社までの道のり
生鮮館やまひこデリカ部門 太田典子さん
──もともとブラザー工業所属のハンドボール選手だったとのことですが、なぜ選手になろうと思ったのですか。また怪我で辞めた時の気持ちは。
私は愛知県豊田市出身。中学校でハンドボール部に一応入ったけれど、当時はサボってばかりでした。その後、たまたまハンドボールの強豪校の高校に進学し、身長が172cmと高かったのもあり、監督から入部を勧められ、そこで周りに刺激されて初めて夢中になれるものを見つけました。最終的に愛知県で優勝でき、高校時代から日本代表選手になりたいと思うように。卒業後にブラザー工業に入りました。
実業団は日本一の選手たちが入ってくるため、県優勝レベルとは違います。そこでキーパーとしてレギュラーを勝ち取り、翌年3月には監督の推薦で日本代表の選考合宿に参加する予定でした。ですが、1998年12月の試合中に膝の靭帯を損傷し、リハビリ後も復帰できるレベルまで感覚が戻らず、引退しました。この時、目の前にあった夢を絶たれて絶望的でした。
──それからなぜスーパーに入社しようと?
最初は3年弱、実家近くのスーパーの鮮魚店でアルバイトをしていたんです。引退後、特にモチベーションはなく、言われた仕事をしていただけ。2001年9月に父が亡くなったことで転機が訪れます。年の離れた弟を連れて家を出なくてはならず、もっと稼ぐ必要がありました。正直スーパーでなくても、高い給料で働かせてもらえるならどこでもよかったです。
ですが、ハンドボールしか知らない私は、未経験でもOKと書かれた仕事でも10社近く断られました。手に職がないといけないと思い、日本料理屋で半年間アルバイトをして包丁の使い方など基本を学びました。
食べ物が好きなので、そこに関わる仕事をしたいと思うように。そんな時、山彦の仕事を求人誌でたまたま見つけました。女性が商品を出している写真が載っていて、女性も活躍できるのかな?となんとなく思いました。
面接で家庭の事情と熱意を理解していただき、経験のない私でも採用してもらえました。社員寮も与えられ、会社にしてもらったことを仕事で返すんだという思いで必死に働きました。