大江千里が47歳でニューヨークへ渡り、ジャズピアニストを目指した本当の理由

還暦を迎えたジャズピアニストの大江千里 (c)Tracy Ketcher


もしいま行かなかったら、もうこの先ジャズを学ぶ機会は来ないかもしれない。日本とアメリカを仕事しながら行ったり来たりするのではダメで、すべてを後ろに置いて、退路を絶たないことには、本当にやりたいことをやってみる人生は始まらないのだ、自分に問いました。

一度その質問に腹の底から「イエス、やろう」と答えが出せた途端、すべての人生の信号がどんどん青に変わっていったんですよね。あれ、次も青だ、その次も青だ、なんて思ってる間に進んじゃって、気がついたらアメリカでジャズピアニストになっていたというのが現実です。

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ブルックリン・キャロルガーデンにて

マネージャーや音楽仲間である渡辺美里さんにジャズ留学の話をしたら、僕の全身から「行きたいオーラ」が滲み出ていたのか、すぐに賛成して背中を押してくれました。一方で、反対する人も多かった。47歳という年齢で築いてきたものをすべて捨ててしまっていいのか? お金だってなくなるんだぞ、その先どうやって生きていくつもりなのかと。

僕自身もちょっと考えました。お金を稼ぐために皿洗いをしている大江千里をみたらファンはどう思うだろうって。職業に貴賎はないとは思うけれど、大江千里は大江千里から逃れられない。だから自分で「こりゃダメだ」と思った時点で、誰の目も届かないところで自給自足して生きていくしかないな、なんて腹を括りました。

でも、いざえいやと踏み出してみたら、先には想像を絶する楽しいことが待っていた。ジャズを学び始めたら悔しいこともできないこともたくさんあるけれど、それが「やってやろうじゃん」っていう気持ちに火をつけた。

20代の同級生に囲まれて過ごした学生生活は、もう毎日が戦いでしたよ。肩が壊れるまでピアノ練習したり、学生と練習室の取り合いをしたり。いつも教室には、気合いを入れて大きな声で「グッドモーニーン!」って叫びながら突入してました(笑)。そういう1つ1つのこと全部がキラキラして楽しかった。

日本でライブをやっていたころは歌手だったから、ずっと自分の体や喉やピアノを弾く指を「守る」ような日常を送ってきたんですよね。仕事の日以外はしゃべらない、指を痛めるまでピアノを弾かないというように。

そんな日々を過ごしてきた「大江千里」を辞めた途端に、いきなり体のあちこちにガタが来始めたんです。入学して最初の教室で老眼が始まって黒板の字は読めないし、腰も痛いし、手も痛い。けれどその反対に、精神的にはどんどん屈強になった。他人の評価なんて気にもかけずに、具体的な夢を数えて、心はどんどん自由になっていきました。
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構成=松崎美和子 写真=本人提供

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