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還暦を迎えたジャズピアニストの大江千里 (c)Tracy Ketcher

「十人十色」「格好悪いふられ方」「あいたい」「ありがとう」──。キャッチーなメロディと独特のキャンディーボイスを武器に、1983年のデビューからヒット曲を連発。24年にわたって第一線で活躍し続けてきたのが、シンガーソングライターの大江千里だ。

そんな彼が、日本での成功を捨て、単身ニューヨークの音楽大学へジャズ留学を決行したのは47歳の時だった。卒業後はアメリカで自らのレーベルを立ち上げ、Senri Oe名義で6枚のジャズアルバムをリリース。4枚目のボーカルアルバム「answer july」は、グラミー賞ジャズボーカル部門コンシダレーションにも選ばれている。

そしてポップスターからジャズピアニストに転身した大江千里は、昨年還暦を迎えた。この3月末に刊行された書籍「マンハッタンに陽はまた昇る」(KADOKAWA)の副題に「60歳から始まる青春グラフィティ」とつけたように、「今は毎日底知れないエネルギーが溢れてきて、それをとっちらかさないように注意しているくらい楽しい」と笑う。

「ずっと心の奥にどうしても挑戦したいことがあったから」と語る彼に、大人になってからの夢の叶え方や覚悟、葛藤について聞いた。

大江千里
ジャズピアニストとしてステージで演奏する大江千里(左)

血尿が出ても走り続ける覚悟?


僕がジャズ留学を決めたのは47歳の時でした。でも、きっかけはそれよりずっと前、31歳でニューヨークに短期滞在したときです。ウエストビレッジにアパートを借りてしばらく住んでいました。

当時はちょうど、人気と忙しさがピークだったころ。楽曲をつくって、それを歌って、ひょんなことでドラマにも出演し、日本武道館に横浜スタジアム、西武球場での大規模なライブツアーを次々とやって、ある意味豪速球のような、考える暇もない毎日を必死で生きていました。

自分が持っている以上の力を出して、「血尿が出ても走り続けるぞ!」と冗談で言うくらい、自分に枷をしていた部分があったのですが、ニューヨークで過ごすうちに、日本でのやり方はここでは通用しないとはっきり感じたんです。日本でめちゃくちゃ頑張っているのは紛れもない事実なのに、ここではまだ自分は何者でもない。その「何者でもない自分」の不安と焦燥感は驚きでした。

ニューヨークという街全体からの本質的でシビアな問いかけに頬をぶたれたような気持ちになって、いつかこの町で音楽がやれたらいいな、強烈にそう思いました。

この31歳のタイミングですべてをスパーンと捨ててそのままニューヨークで暮らすことを決断していたら、僕の人生はどこへ向かったのでしょうね。

けれど、僕の現実は日本にある。当時の僕はポップスをやめたくなかった。というより、死んでもやめたくないほど好きだった。だから、この時はいったんニューヨークを諦めました。

プロの音楽家として本当の意味でもっと認められるようになろう。それが僕が30代で立てた誓いだったんです。

帰国する日、タクシーでJFK空港に向かう途中に通る橋の真ん中あたりから「もう1回だけ」とマンハッタンを振り返ったら、街はいつも通り笑っていたんですよね。僕のような人間がしっぽ巻いて母国に帰ることくらい、ニューヨークという街にとってはなんでもないことなんだ、毎日見ている景色なんだと気づいて、愕然としたのを覚えています。

構成=松崎美和子 写真=本人提供

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