A・ホプキンスの「ファーザー」 認知症を疑似体験するかのような映像表現

(c)NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020


観ていて油断のできない作品


アンソニー・ホプキンスに、「羊たちの沈黙」(ジョナサン・デミ監督、1991年)以来のアカデミー賞主演男優賞をもたらした「ファーザー」だが、やはり賞にふさわしい熟達の演技を作中では披露している。

ホプキンスが演じるのは、自らのファーストネームと同じ「アンソニー」という81歳の老人。ロンドンの瀟洒なフラットに1人で住む彼には、すでに認知症が始まっており、これがこの「ファーザー」という作品を一風変わった興味深い作品にしている。

認知症の主な症状としては、記憶障害あるいは時間や場所や人物などへの認識力の低下などが挙げられるが、「ファーザー」では主人公のアンソニーに現れるそれらの症状が巧みに映像を通して表現されており、ホプキンスもそれに応えるかのように悲喜が交錯する千変万化の演技を披露している。

独り暮らしをする父親アンソニー(アンソニー・ホプキンス)のもとを、娘のアン(オリヴィア・コールマン)が訪れる。アンソニーはアンが手配した介護人を「誰の助けも必要ない」と頑なに拒否していた。アンが、新しい恋人ができて彼の住むパリに移り住むことを告げると、アンソニーはショックを受けたように放心するのだった。

場面が変わり、キッチンで紅茶を淹れるアンソニー。彼がリビングに入っていくと、そこには見知らぬ男が座っていた。男はアンの夫のポールだと名乗り、ここはアンソニーの家ではなく、自分とアンの家だと主張する。当惑するアンソニーの前に、今度は知らない女性が現れる。彼女が自分はアンで、離婚して5年以上経つので夫はいないと言うと、ポールと名乗った男の姿は消えていた。

また新しい場面では、アンが介護人の女性ローラをアンソニーに紹介する。若く美しいローラを前にして機嫌の良いアンソニーは、彼女にウイスキーを振る舞い、実は自分はダンサーだったと戯言を投げかけ、タップダンスのステップまで披露する。

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さらに場面が変わり、アンソニーが食事を摂ろうとキッチンに行くと、また新たな見知らぬ男が座っていた。アンがポールと呼ぶその男は、「いつまでわれわれをイラつかせる気なのか」とアンソニーに詰め寄るのだったが……。

このように「ファーザー」では、それまで語られた「事実」を覆すような場面が次から次へと現れ、観る者はその不条理な展開に戸惑いを覚えることになる。もはや主人公のアンソニーは、認知症によって現実と妄想の区別がつかなくなっており、観る側は映像によってそれを体験することにもなる。

また場面が転換する際には、アンソニーの住むフラットが何度も映されるが、その度に室内は変化していき、ラストシーンへと導いていく。「ファーザー」の映像にはそこここに仕掛けが用意されており、観ていて油断のできない作品でもある。

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ということで、ミステリー作品を観るときのように、疑問を感じたり気になったりするところがあったら、しっかりと記憶にとどめておくことをお勧めする。最後に思わぬカタルシスを得ることができるかもしれない。
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文=稲垣伸寿

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