リアルとフィクションのはざまで


私たちは私たちの生活を便利にするために、テクノロジーを発展させ文明を発達させてきた。これからもそうだろう。今後も私たちの生活は便利になる。便利になり続ける。より無駄なく、合理的に、科学的に妥当なかたちで社会制度が設計され実装されることは、よいことだと私は思う。

けれど、同時に私たちは共感する動物であり、感情的な動物であり、私たちの存在が合理性そのものと合致することは決してない。

私たちは私たちの知らぬ間に、私たち自身を裏切ってしまうことが多くある。

人工の肺を許す私たちは人工の脳を許すだろう。人工の脳を許す私たちは、それを持ったロボットを許すだろう。

そのとき私たちは、ロボットとクローン人間の違いを、ロボットと人間の違いを明確に切り分けることができるだろうか。ロボットがいだく悲しみや苦しみと、私たちがいだく悲しみや苦しみの違いを指摘することができるだろうか?

あるいは悲しみや苦しみをいだくことのない人工脳の機能が開発されたとして、それとロボトミー手術のあいだにどれだけの違いがあるのか?

──目先の利便性を求めていくという行為が、一歩一歩、私たちを、当初私たちが望んでいなかったような方向に導いていくということは、大いにありうることだと思う。

私たちは利便性のみを求めて生きているわけではないし、共感性のみに駆動されて生きているわけでもない。私たちは論理のみで生きているわけではないし、倫理のみで生きているわけでもない。現実のみで生きているわけではないし、虚構のみで生きているわけでもない。それらのはざまに立って、つど細かな線を引き、線を引き直しながら、できるだけ間違いを減らすようにして生きて、生き直してきた。

そして私たちはいま、一つの分岐点に辿り着こうとしている。かつてのSF小説の世界のように、「三原則」のようなルールを作ることで、ヒトならざるモノをモノとして位置づけ使役するのか、あるいはモノをモノではないものと見なし、彼らの権利を拡張し、そうした権利を前提としたうえで、互いに権利を遵守しあいながら落としどころを探っていくのか、フィクションとしてではなく、リアルな政策的問題として、考えはじめるべきときが来ているように思う。

人には人の考えがあるように、クローン人間にはクローン人間の、脳には脳の、臓器には臓器の、ロボットにはロボットの、動物には動物の、それぞれの考えがある。

SF小説を読み、フィクションの中に生きる私たちは、ロボットに共感を覚え、クローン人間に共感を覚え、ときに涙を流すほどの感動を覚える。

しかしそれにもかかわらず、私たちが本を読み終わり、本から顔を上げ、フィクションからリアルに戻ってきた途端に、思考する人工の脳や、脳を持つロボットへの共感を忘れ、ただのモノでしかないモノとしてのみ扱おうとすることは、とても奇妙なことだと私は思う。

連載:リアルとフィクションのはざまで
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文=樋口恭介

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