その牽引役となったのは、エンターテインメントや金融、ゲーム、デバイスなどの事業ですが、この流れをいち早くつくりあげたのが、1995年から10年間、CEOを務めた出井伸之さんでした。
インターネットの重要性に早くから気づき、単なるモノづくり企業からの脱却を図ろうとしたことは、当時、賛否両論を巻き起こしました。しかし、結果的には、出井さんが示した方向性は正しく先を見通しており、後にソニーは、苦況に苦しむ家電業界のなかでは、ひと足先にそこから抜け出したのでした。
花形の職場で過ごすより力がついた
そんな出井さんがソニーに入社したのは、1960年。「東京通信工業」から「ソニー」へと社名が変わって、わずか2年目のことでした。
本社は、まだ木造の建物でした。早稲田大学政治経済学部を卒業した出井さんの選択は、当時は異端なものだったはずです。
「実は確信犯でした。大学でヨーロッパの経済を学んでいて、ヨーロッパで伸びそうなメーカーに行こうと決めていました」
ソニー(東京通信工業)を知ったのは高校時代。当時発売されたトランジスタラジオは、本当に衝撃的だったといいます。ただ、その時は、名前を知っているというだけで、会社自体のことはよくわからなかったといいます。
「やっぱりちょっと心配だったので、会社を選ぶときに父のツテで経済研究所の人を紹介してもらって、ソニーの話を聞きに行ったんです。専門家の解説は明快でした。社内に人材はいない。経営戦略はアメリカに向いていると(笑)。でも、僕はこれはチャンスだと思ったんですね」
当時すでに有名だったり、安定していたりする会社、自分がやりたいことができそうな会社を選択する生き方もありました。しかし、出井さんは「逆張り」を考えたのです。そのほうが、チャンスは大きいはずだと。
「大会社よりも小さな会社、人材のいる会社よりもいない会社、ヨーロッパへの進出はこれからという会社。実際、創業者の1人だった盛田昭夫さんは、『われわれの会社に、ヨーロッパでやりたいという人が来た』と喜んでくれました」
こんな出会いもあって、出井さんは、若い時代から盛田さんとも直接の交流をすることになります。