岩手・山田湾の牡蠣がつなぐ シェフと漁師の10年の軌跡

岩手県でイタリア料理店を営むシェフの駒場さん(左)と、山田湾で牡蠣を養殖している漁師の中村さん(右)


震災から半年後、常連客の言葉で再スタートを決意


店と自宅が流され、妻も失ったシェフの駒場さんは盛岡の実家で、何も手につかない状態で日々を過ごしていた。震災から半年後、シェフ仲間に誘われて、避難所の炊き出しのボランティアで山田町に戻った。そこで、料理を通じて人を笑顔にできる喜びを思い出した。再会した山田町の常連客たちは、口々にこんな言葉をかけてくれた。「店はいつ再開するのか」「またパスタが食べたい」。

震災から1年後、駒場さんは盛岡市内にいまの店をオープンした。幼い娘二人のためには、実家がある盛岡に残ったほうがいいと判断した。ただ、山田から盛岡に移転しても店の名前には、やはり「山田いたりあん」とつけた。物件は常連客が見つけてくれ、イスやテーブル、調理器具はシェフ仲間や支援団体が届けてくれた。

さらに、その年の夏には、山田町の駅近くにも仮設店舗をオープンした。山田町と盛岡市を行き来しながら、必死で働いた。

岩手
震災後、盛岡市に店をオープンした駒場さん。新たな店でも山田産の牡蠣を使った料理は変わらず人気だ

津波で流された4000台の牡蠣棚 山田湾・復活への道


4000台の牡蠣棚が津波で流された山田湾。漁師の中村さんは「震災から3カ月ぐらいたってから、仲間とともに漁港を掃除したり、使える道具を拾い集めたりするところから始めた」と振り返る。震災をきっかけに、漁業をやめた人も少なくなかった。

再び牡蠣を出荷できるようになるまでには3年を要した。だが、その頃には販路はすでに別の地域の牡蠣に奪われていた。山田湾で牡蠣がとれなくなっても、築地市場は、全国どこからでも牡蠣をもってくることができた。いまでも、震災前の販路を取り戻せたケースは少ないという。

牡蠣
牡蠣棚を回り、いかだに乗り移って、牡蠣の育ち具合を確認する

山田の牡蠣の復活より一足先に店を再開していた駒場さんは、再び中村さんの牡蠣を使ったクリームパスタを出し始めた。山田町に店があったときからの看板メニューだ。駒場さんは「できるだけ、山田町のものを使いたい。自分は山田町出身だと思っている」と話す。

震災から10年。4000台あった牡蠣棚は壊滅したが、2200台まで戻した。「10年以上前は岩手の人でも『山田町ってどこにあるの?』というかんじだった」というが、いまでは牡蠣を食べるために山田町を訪れる人も増えた。中村さんは「駒場さんは山田町の観光大使みたいなもの」と笑う。

コロナ禍で、首都圏の飲食店からの牡蠣の注文はストップしたが、全国の個人のファンから取り寄せの注文が増えているという。牡蠣鍋などで冬のイメージがある牡蠣だが、山田湾の牡蠣は春がもっとも美味しい。
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文、写真=島契嗣

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