「あかり」だけじゃない イサム・ノグチの葛藤と芸術家人生の軌跡

「あかり」インスタレーション

20世紀を代表する芸術家で、彫刻、舞台芸術、プロダクトデザイン、ランドスケープデザインなど多岐にわたって創作を行なったイサム・ノグチ。

彼の軌跡を辿る「イサム・ノグチ 発見の道」展が4月24日から東京都美術館で開催される。会期は8月29日まで。(東京都の方針により新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、4月25日より臨時休室。詳細は東京都美術館公式ホームページにて)

アイデンティティの葛藤、環境芸術、世界主義者(コスモポリタン)など彼を取り巻くキーワードは、20世紀初頭に生まれ没後30年以上が経った一人の芸術家特有のものでなく、現代においても注目が集まるものではないだろうか。

日本人の父とアメリカ人の母をもち、世界中にその足跡を残すノグチ。彼の数多の作品からは、彫刻の在り方を生涯を通して問い続けながらも、葛藤や、自然との対話を源として常に進取の創作を行なった彼の生き方を見ることができる。

本記事では、気鋭の写真家・苅部太郎が撮り下ろした展示作品とともに、ノグチの芸術家人生の歩みを紹介する。

葛藤でありインスピレーション 日本とノグチ


1904年、詩人の野口米次郎と作家で教師のアメリカ人レオニー・ギルモアとの間にノグチは生まれた。ロサンゼルスで生まれた際にはすでに米次郎は日本に帰国しており、3歳で母と渡日するまで父とは会ったことがなかった。

母、レオニーと日本に移り住むも父は日本で他に妻子をもっていたため、14歳まで茅ヶ崎で母とノグチ、のちに生まれる妹と生活した。ハーフへの差別に苦しみ、日本の血をひきながらも日本での生活に馴染めないノグチはアイデンティティの葛藤を抱えるようになる。

14歳で再渡米。20歳から母の勧めで美術学校に通い始め、彫刻を学ぶと芸術家としての才能が開花し、入学後わずか3カ月で個展を開くほどだった。渡米した当時は母の姓であるギルモアを名乗っていたが、この頃から「イサム・ノグチ」を名乗るようになる。自分から離れていった父親を憎む反面、彼自身詩人として、創作活動を通じた日米の融合を目指した父への、畏敬の念もあったという。

自身のルーツは葛藤の種となりながらも、日本の伝統や文化の諸相、例えば京都の枯山水の庭園や茶の湯の作法などは、常に彼のインスピレーションの源だった。

イサム
イサム・ノグチ《化身》 1947年(鋳造1972年) イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵(公益財団法人イサム・ノグチ日本財団に永久貸与)(c)2021 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum/ ARS, NY/ JASPAR, Tokyo E3713

岐阜提灯からインスピレーションを得ている「あかり」は1951年から制作が始められ、その後ノグチのライフワークとなったシリーズだ。彫刻と空間は一体だと考えていたノグチは、和紙を通した柔らかな光そのものを「光の彫刻」と捉えた。

ノグチ
「あかり」インスタレーション

公園
《プレイスカルプチュア》 2021年、鋼鉄、茨城放送蔵

ノグチは生涯を通じて遊園地の建設プランをもっていた。神奈川県横浜市の公園「こどもの国」には彼の作品群があり、大型遊具の設計なども手掛けている。ノグチの作品に一貫する生命力が、その形態と鮮やかな色からも伝わる。下の写真の作品も、動感を彫刻で表現している。

太陽
イサム・ノグチ《黒い太陽》 1967-69年 国立国際美術館蔵 (c)2021 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum/ ARS, NY/ JASPAR, Tokyo E3713

下の写真の作品名「ヴォイド(虚空)」とは、「すべてのものの存在する場所」という意味をもつ仏教用語。禅的なイメージに魅了されていた彼は、70年代以降、同名の連作を手がけた。

禅
イサム・ノグチ《ヴォイド》 1971年(鋳造1980年)和歌山県立近代美術館蔵 (c)2021 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum/ ARS, NY/ JASPAR, Tokyo E3713
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文=河村優 写真=苅部太郎

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