脳はだませても、体はだませない。精進料理に学ぶプロセスの価値

「精進のゆうげ」にて。精進料理人の棚橋俊夫氏(左)


そこで棚橋氏が勧めるのが、精進料理の基本である胡麻を擂(す)ること。この日は、食事に先立ち、実際に参加者全員で擂り鉢と擂粉木(すりこぎ)を使い胡麻を擂った。目の前のすり鉢に煎りたての胡麻が入り、香ばしい香りと共に、パチ、パチとひそやかに粒が弾ける音がする。

「胡麻を擂っている間、目を閉じても良いですよ」と棚橋氏。まるで瞑想のようだ。静かな中、胡麻をする音だけが響く。結構な運動量で、うっすら汗をかくほどだった。



粒状だった胡麻がペースト状になり、液状になっていく。立ち上る香りに、胡麻はこんなに良い香りだったのか、と驚かされる。料理とは、本来こんなにたくさんの五感の刺激を伴うものなのだ。

この日は、あとでいただく前菜用として、酢や醤油などの調味料を加えた「胡麻ネーズ」を作ったため、ペーストの状態までだったが、生の胡麻を使い、胡麻豆腐用のとろりとした液状にするまでには、1時間ほどかかるという。

料理や食事で、心と体を整える


もちろん、毎日何時間もかけて料理をすることは難しいだろう。しかし、この胡麻擂り、そしてその後の食事を通して、食材と向き合って料理をし、ゆっくりと食事をする時間が五感に与える満足感の大切さに気付かされた。料理や食事はただ栄養を摂るための作業なのではなく、心と体を整える時間もあるのだ。

胡麻を擂りながら思い出したのが、約800年前に精進の考えを日本に持ち込んだ、道元禅師の言葉だ。中国での修行中、年取った高位の僧が、暑い中海藻を干しているのを見た道元禅師が「そのようなきつい雑用は他の人に任せれば良いのに」と言うと、その高僧は「他人のしたことは自分の修行にならない」と答えたという。

コロナ禍で、筆者も在宅で食事を作ることが増えたが、仕事の合間にいかに速くその工程を済ませるか、という「作業」として料理をしていなかったか。そう自問させられた。



日々の調理の中で向き合っている食材はモノではなく命である。自らも一つの命として、食材という命と対峙すること。いかに食べ物が豊富で、すぐに手に入る世の中になろうとも、その食材への感謝を忘れてはいけない。脳という自我を取り去り、自分も自然の一部であると感じて思いめぐらす時間こそが、心と体を整え、脳ではなく「体が喜ぶ」食につながるのではないかと感じた

ストレスが溜まって、手近にあるインスタント食品やお菓子を食べたくなる時。そんな時こそ、自然の恵みに感謝し、集中して料理をする。そんな時間が必要なのかもしれない。

文=仲山今日子

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