奇跡の一本松と伐採された御神木 日系3世のチェロ奏者が音色に込めたこと

アーティストであり、チェロ奏者のベンジャミン・スケッパー


戦争花嫁としてオーストラリアに渡った祖母の教え


彼の祖母、井川憲惠(1925~98年)は広島県出身。原爆で被曝したが、生き残り、終戦後にオーストラリア兵のウイリアム・ブラウンと結婚し、1953年にオーストラリアに移住した「戦争花嫁」だという。

幼少期からクラシック音楽の英才教育を受けたベンジャミンは、演奏家として10代から世界を巡る生活をしており、トップ美容師として活躍する両親に代わって、祖母が彼の演奏旅行に同行することが多かった。

「祖母は戦争花嫁として最初にオーストラリアに渡った日本人で、忍耐強いパイオニア精神をもった女性でした。彼女の人生のストーリーや原爆の被爆体験を聞いて、子供のころから日本に強い関心がありました」

ベンジャミンは、日本語教育が受けられるメルボルン高校に入学。その後、メルボルン大学法学部に進学、上智大学にも留学して日本語を身につけた。

当時のオーストラリアでは「スポーツはマッチョ、音楽はゲイだという偏見があった」とベンジャミンは振り返り、せっかくクラシックの英才教育を受けて育った周りの友人も、音楽やアートの道を選ばず、法律家やエンジニアを目指す人が多かったということだ。

ベンジャミン・スケッパー
取材時にも「For Our Freedom」を即興で演奏した

カンボジアで学んだオリエンタルな課題解決


最初は「弁護士になりたくない」と反抗していたが、祖母から教えられた日本のことわざ「石の上にも三年」を信じて、我慢してその道を選んだ。

そんななか、カンボジアのNGOで少数民族をサポートするボランティアに行く機会があり、そこで大きな影響を受けたという。

当時は、ポル・ポト政権後のカンボジア紛争(1979~91年)終結した後で、市場経済化が進められ、現地の人々がまちづくりの方向性を模索していた。そこでは、僧侶が地域の問題解決に向けて話し合いの場を主導していることに驚いたと振り返る。

「訴訟はA or Bの勝ち負けの世界ですが、話し合って解決するという方法が印象深く、とても影響を受けました。また宗教が色濃く根付いていて、課題解決のためにも大事にされていることから、オリエンタルな価値観を学びました」
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文=督あかり 写真=Christian Tartarello

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