子どもたちにとってのサードプレイス。自宅と学校以外の「居場所」が果たす役割 


子どもがままごとの道具で「ばあば、お茶どうぞ」とお茶を出すと、「ありがとうね」と飲む真似をしてお年寄りがにっこり笑う。出歩くことが億劫なお年寄りも、子どもたちに「じいじも行こう!」と誘われ散歩に出かける場面も、よく見かける光景だ。


お年寄りと赤ちゃんが自然と触れ合う

折り紙をお年寄りに教わる小学生や、幼い子をあやしながら恋バナをしたり、何度も同じ話を繰り返すお年寄りと、ニコニコしながらやりとりを楽しんだりする中学生もいる。

普段赤ちゃんと触れ合うことのない小中学生も、何度か遊びに来るうちに赤ちゃんを抱っこしてあやすことができるようになる。代表を務める森田眞希さんは次のように語った。

「学校で居場所を見つけられなかった小学生が、ここで小さな子どもをあやす様子をお年寄りにほめられ、自信をつけ、保育士になりたいと自らの夢を見つけたこともありました」

多世代がともにいて、障がいがあってもなくても、いまできることが違っても、互いに相手を思いやり、生かし合うことができる場所。「地域の寄り合い所 また明日」は、学年で区切られる均一的な学校の人間関係だけでは見つけられない自分らしさを発見し、体験を通して多様な人との関係を自分でつくることのできる「サードプレイス」だ。

森田さんは、いつもスタッフには「やりすぎない、出過ぎない、待つことを大切にしよう」と伝えているという。スタッフはできるだけその場に溶け込み、安全で安心な場になるように、そのやりとりを見守るのが大切だと考えているからだ。

「ねばならない」から解放されなければ、本当の出会いは生まれない


「自分の力を存分に発揮して、幸せに生きてほしい」「言われたことだけではなく、自分なりに考え、行動できる大人になってほしい」──。これは、大人たちにも共通する願いのはずだ。しかし、こうした願いは、タイムリミットのある「受験」というハードルを前に、忘れられてしまうことが多い。

連続講座のファシリテーターでもある汐見稔幸さんは、西野さんと森田さんの話を次のようにまとめた。

「人間は、それぞれの人生において、おもしろいことや好きなことに取り組みながら、自分はなんのために生まれてきたのかを一生懸命探しています。

子どもたちの学びを保障する条件としてはいろいろありますが、学びには『人そのもの』『ものそのもの』『世界そのもの』との出会いが大きく作用します。『ねばならない』から解放された場所でなければ、その子にとって本当の出会いは生まれないのです。

いまの社会は『ねばならない』が無尽蔵に増えてしまっているため、そこでは、子どもたちは『したい』ことを十分にできません。『ねばならない』の世界の前に、いま生きている世界のなかに『すごい!』『面白い!』と思うことを時間の制限なしに感じることが必要です。

まずは自分がやりたいことを一生懸命にやってみて、試行錯誤しながら何が自分に向いているのかを見つける。そういうことを保障された子のほうが、自分から『ねばならない』の世界にも飛び込んでいくことができるようになります。今日西野さんと森田さんにお話しいただいた2つの場所では、そのことを子どもたちに充分に保障していることがよくわかりました」
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文=太田美由紀

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