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2021.03.28

YKKはいかにして米国製造業の「至宝」になったか

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米国で製造業の国内回帰を求める声が高まっている。こうした主張を支える論拠のなかでも説得力のあるものの一つは、米国で活動している数多くのメーカーがじつに素晴らしい仕事をしているという事実である。

筆者もすでに、そうした傑出した米国メーカーを1社知っている。少し前に本欄で取り上げたワークウェアブランドのカーハートである。そして、この記事を書く過程で、そうした企業をもう1社知ることになった。ファスナー大手のYKKだ。カーハートは1974年に、YKKのファスナーの大口顧客になっていた。

YKKは東京に本社を置く日本企業だが、1960年に米国に進出している。同年、ニューヨーク市のいわゆるガーメント地区に営業所を開設したのだった。創業者の吉田忠雄は、材料から製造設備、製品まで自社で手がける垂直統合の信奉者であり、米国でもこのモデルに基づいた組織をつくることを目標にしていた。

当時、米国の衣料産業が南東部の州に集積していたことから、吉田はジョージア州の知事だったジミー・カーター(のちの米国大統領)に接触し、親交を結ぶ。1974年、YKKは同州のメーコンに54エーカー(約22万平方メートル)の土地を取得し、そこに工場を建設する。YKKが米国の製造業に関わるようになった始まりである。

それから20年近く、YKKの米国事業はおおむね堅調に成長し、生産拠点の広さは全米で計700エーカー(約2.8平方キロメートル)超に広がった。だが、1990年代に試練が訪れる。米国の大半の衣料メーカーが生産を海外に移し始めたのだ。

「顧客と社員の長期的な成功のために力を尽くすというのが当社の文化です」とYKKコーポレーション・オブ・アメリカの社長、ジム・リードは説明する。「『他人の利益を図らずして自らの繁栄はない』という、YKKの企業精神『善の巡環』の一環です。これは当社の創業者が唱えたもので、彼は企業は利益を稼ぐだけの存在であってはならないと強調していました」

吉田は今では一般的になっているこうした考え方によって、時代の数十年先を行っていた。とはいえ、それによって、20世紀末の米国のアパレルビジネスが見舞われた急激な落ち込みを切り抜けるのは、簡単なことではなかった。

しかし、YKKの米国への関わりは本物だった。YKKはたんにこの苦境を切り抜けただけでなく、多角化によって一段の成長を果たす。自動車や安全装置、医療、衛生、さらには軍事や宇宙といった新市場を開拓し、自社のファスナーを売り込んだほか、米国事業ではドアや窓、カーテンウォールといった建築用製品にも参入した。
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編集=江戸伸禎

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