避難誘導中、津波にのまれた警察官たち 「逃げて、必ず生き残れ」の教訓

釜石警察署の署長として震災10年を迎えた仲谷千春さん 「署長の仕事は署員を幸せにすること」(3月10日、釜石市で)


「署の玄関にはチョウザメが転がっていた。近くの橋げたには津波に乗って衝突した車が巻きついていた」

署の庁舎の中に入って確認すると、拳銃の保管庫の鍵や、拳銃の出し入れを記録する資料も流されてしまっていた。署に残っていた資料を手分けしてかき集め、車に積み込んだ。

津波の直撃を受け、警察署機能を失った海端の釜石署は庁舎を放棄し、内陸の交番に災害対策本部を設けていた。署員たちは、不眠不休で住民の捜索にあたった。「行方不明の家族があの付近にいると思うから、さがしてほしい」といった要請が相次いでいた。

本部から駆けつけた仲谷さんは「署員たちは泥のかたまりだった。まるで獣のようだと思った。みんなまともに寝ておらず、ひどく疲れていた」と振り返る。


釜石署の新庁舎には、殉職した署員3人の写真が掲げられていた

現場は、まさに戦場だった。経験したことのない数の遺体に、検視作業が追いつかない。民間の会社の広い敷地が遺体安置所となった。亡くなった警察官の検視も、同僚が担当した。

行方不明だった警察官の遺体が見つかったとき、父親がすぐに駆けつけた。警察無線で聞いていたという。父親は別の署の警察官だった。

岩手県警では今も2人の警察官が行方不明のままだ。

震災から10年の前日となる3月10日、釜石市の海岸で、警察や海上保安部などの約70人が行方不明者の捜索を行った。警察官たちは横一列になって熊手のような道具で砂浜をかき、引っかかったものを手にして、人の骨ではないか確認し、また砂に戻す作業を繰り返した。ダイバーが海の中も捜索した。

釜石署長の仲谷さんは「人力で捜索できるところは10年間でやり尽くしている。多くは海の彼方にいるだろう。重機で掘れば何か出てくるかもしれないが、復興工事も終わった今では期待できない」と話す。


汗をぬぐいながら行方不明者の骨や手がかりをさがした(3月10日、釜石市で)

行方不明者の捜索をいつまで続けるべきか


警察内部でも、震災の行方不明者の捜索をいつまで続けるべきか、議論があるという。それでも仲谷さんは言う。「家族の中には、頭では『もう見つかることはない』と分かっていても、警察官が捜索してくれている姿に力をもらえると話す人もいる。パフォーマンスのつもりはないが、そうした声があるなら、警察として寄り添っていきたい」。

遺骨が見つかっていないために「記憶を失くして、どこかで元気に生きているんじゃないか」と期待してしまい、苦しんでいる家族もいる。

今年2月、釜石市民ホールで、震災時の警察などの活動を振り返る写真展が開かれた。訪れた男性がこう言った。「津波が来ている中で家に戻ろうとして、自分もおまわりさんに迷惑をかけた。おまわりさんに謝りたい」。

津波は、突然襲ってくるわけではない。東日本大震災でも、津波が到達するまで30分は猶予があった。多くの犠牲は「津波てんでんこ」を徹底することの大切さを改めて訴えている。

「一人ひとりが、てんでんばらばらに、人にかまわず必死で高台に逃げろ」

自分の大切な人も、きっと「津波てんでんこ」の教えを守り、高台に避難しているはず。そうやってお互いを信じることが、多くの命を救うことにつながる。

被災地の警察では、経験と教訓をどう受け継いでいくかが課題となっている。岩手県警でも世代交代が進み、10年前の震災対応を経験していない警察官が3割を超えた。

仲谷さんは、これからも若い警察官たちに伝え続けるつもりだ。「災害が起きたときにもっとも大切なことは、生き残ることだ。必ず生き残って、警察官としての使命を果たしてほしい」。


連載:ポジティブ・ジャーナリズムの現場から
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文=島契嗣

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