避難誘導中、津波にのまれた警察官たち 「逃げて、必ず生き残れ」の教訓

釜石警察署の署長として震災10年を迎えた仲谷千春さん 「署長の仕事は署員を幸せにすること」(3月10日、釜石市で)



「警察官も逃げなければいけない時はある」と仲谷さんは語る

地震が発生してから、津波が到達するまでの間に、仲谷さんは警察庁に「大きな揺れだったが、岩手県警は警察機能を維持している」と電話で一報を入れている。阪神大震災では時間が経ってから、実は警察署が倒壊し、機能していなかったことが明らかになった。その反省から、警察庁は警察施設の被災状況について、まず一報を入れるよう指示していた。

今になって思えば信じがたいことだが、釜石署は港近くの海端にあった。「署の窓から釣りができるんじゃないか」と冗談を言われるほどだった。住民の利便性を考慮した立地、運転免許センターの試験コースを設けるために広い土地が必要だったことも、海端に釜石署がつくられた理由とされる(2019年、3キロ内陸側の場所に新庁舎が完成した)。

大津波は防波堤を軽々と越え、釜石署は2階の天井まで浸水した。水は3階にも迫ろうとしていた。釜石署は、警察署機能を完全に失った。

釜石署屋上から
釜石署の屋上から撮影した写真。交通機動隊の庁舎(左)が津波にのまれ、車も流された(岩手県警提供)

各地の沿岸部で避難誘導にあたり、亡くなった警察官たち


同じころ、沿岸では多くの警察官たちが、それぞれの現場で避難誘導にあたっていた。

イルカ漁が盛んな大槌町には、反捕鯨団体「シー・シェパード」のメンバーの外国人たちが調査で訪れていた。地元の漁業関係者との間でトラブルにならないよう、警戒にあたっていた警察官たちは「TSUNAMI」の言葉と身ぶり手ぶりで危険が迫っていることを伝え、高台に誘導した。

濁流の中に3回も繰り返し飛び込み、何人もの住民を救った警察官もいた。人が乗ったまま流される車を見つけ、浮いていた角材でフロントガラスをたたき割って、車内から救出した。当時の警察署長は「よくやった」とほめた後で「人命救助は一か八かの賭けではない。おまえにも家族がいるだろう。今後は絶対に無理はするな」と涙を浮かべて叱った。

宮古署の2人は、非番だったが、地震が起きて交番に走った。制服に着替える時間もなかったが、警察官と認識してもらうため、背中に「岩手県警察」と書かれたジャンパーを羽織ってパトカーに乗り込んだ。立ち往生していた救急車を避難誘導中に津波にのみ込まれた。

陸前高田市では、デモが行われており、この警備にあたっていた警察官のうち、3人が津波にのまれた。警察無線で「避難誘導にあたる」との連絡が最後だった。警察学校を卒業し、2カ月前に警察署に配属されたばかりの21歳の巡査も犠牲になった。遺体は震災から1カ月後、最後の無線通話があった地域の水田のがれきの下で見つかった。

定年を1週間後に控えていた60歳の交番所長は、部下に避難するように指示し、「ここからが俺の本当の仕事だ」と言って交番に一人とどまり、無線で指揮している中で、まもなく襲ってきた津波に巻き込まれた。

警察官が「津波が来ているので行ってはダメだ!」と制止しても、「俺の命なんかどうでもいい。家族がいるんだ。通してくれ!」という住民との間で、押し問答になる場面も沿岸の各地で発生していた(こうしたトラブルは発生から2日目以降も起きている)。

津波が到達した陸前高田市の沿岸部
陸前高田市の街を襲う津波。この時、県警航空隊のヘリは警察無線で「陸前高田市壊滅!」と伝えた(岩手県警提供)

津波にのまれ、行方不明となった警察官を捜索する部隊が編成されることは、なかった。警察は住民の救助と捜索に集中した。「複数の警察官が行方不明になっている」と聞きつけた警察官のOBたちが自主的に交番付近などの捜索にあたった。

現在、釜石署長を務める仲谷さんは当時、県警本部で被害情報の収集や、県庁との連絡調整に追われていたが、地震発生から3日後、釜石署に入った。「特命班として、壊滅した釜石署の捜査資料の回収や拳銃の保管庫の確認も任務だった」。回収した資料を積めるよう、2台のワンボックスカーに分かれて乗り込み、自衛隊ががれきを除去した道を走り、釜石署を目指した。
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文=島契嗣

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