主人公はただの「男」と「女」 音楽が引き寄せた一期一会を描く「ONCE ダブリンの街角で」

2人は音楽を通じて距離を縮めていく(Matthew Eisman/Getty Images)


バイオリニストだった父を亡くしチェコからやってきたという女が、時々展示のピアノを弾かせてもらっている馴染みの楽器店に男を連れていくシーンがいい。メンデルスゾーンの抒情的なピアノ曲をしっとりと奏でる彼女に感心した男が、おそるおそる自分の曲でセッションしないかと持ちかけ、女もそれに応じ、徐々に呼吸を合わせていって2人の素晴らしいプレイが成立する。

ここで男が歌うのは、励ましの歌である。互いに知り合ったばかりで、相手の深い事情はまだわかっていない。だが歌を通して言葉では言いにくい感情を伝えようとする男と、それを受け止めて譜面を見ながら共に歌う女の姿は、音楽をやっている者同士だけに通じる幸福感に満ちて、見ていて気持ちがいい。

楽器店でしかピアノに触れることのできない女にピアノを解放している店主の静かな微笑みからも、ここは音楽を愛する人の街なのだなということが伝わってくる。

恋人への断ち切れない思いをシャウトしまくり、自分の失恋の顛末をユーモラスにアドリブで歌って聴かせる男の、比較的わかりやすい性格に対して、女のほうは少しユニークだ。

男が家電の修理屋だと知って、歌っている現場に壊れた掃除機を直接持って行ったり、男の曲を家で聴いていたらプレーヤーの電池が切れ、寝巻きにガウンだけ羽織ってスリッパのまま買いに出かけたり、かと思えば、録音スタジオを借りる際に意外としっかりした交渉術を発揮したり。演奏家同士だという安心感と男の歌への賞賛が女の行動を後押ししている。

ダブリン生まれで一時期はロンドンに出ていたものの、一人暮らしの父と電気屋をやるためにまた故郷に戻ってきた男にとって、女はおそらく魅力的だがちょっと変わった人だろう。

彼女がチェコから来た外国人であることも、それと関係している。初めて招かれた女の古いアパートで出会った、幼い娘と英語を話さない母親。遠いところにいるらしい娘の父親。英語に慣れるためにアパートで唯一のテレビを見に訪問する、若いチェコの隣人たち。それらのすべてが、男と女の背景の違いを物語る。だからこそ逆に、彼らをつなぐものが音楽だけであることがくっきりと浮かび上がってくる。

女と交流するうちに、男の中ではなぜ恋人と別れることになったのか、自らを省みる気持ちが膨らんでいく。もちろんそれはすべて歌に反映される。
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文=大野 左紀子

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