忖度からの独立、61歳でIPO。QDレーザが挑む「電子立国・日本」の復活

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QDレーザの上場までの道のり、また菅原の歩んできた道は、「電子立国 日本」の凋落と再生を象徴する物語のひとつとなるかもしれない。

東京大学大学院を卒業した菅原は、1984年に富士通研究所に研究員として入所。その後22年間にわたりレーザ技術の研究に邁進する。日本は電子立国としての盤石の地位を誇り、「情報産業を牛耳るのは富士通かIBMかと言われるほどの時代だった」と、菅原は当時を振り返る。


QDレーザ代表取締役 菅原充

菅原の古巣である富士通研究所も、レーザの材料やデバイス技術では世界最高の研究所だったという。

ただ栄華は永遠には続かなかった。

2001年にITバブルが崩壊すると、富士通のハードウェア事業は暗礁に乗り上げる。世界各国から発注が途切れ、在庫の山が積み重なり、建設中だった半導体レーザの工場もストップしてしまう。ビジネスの転換を求められた富士通は、ハードウェア事業から徐々にソリューション事業に舵を切り始める。

「研究所内の半導体や光通信の部門は他社に売却されるなど、量子ドットに関する基礎研究も難しくなりました。当時の上司からは私が研究を止めないと自分がクビになってしまうと。八方塞がりの状況でしたが、どうにか研究を続けようと抗いました」

2001年から数年間、富士通研究所の半導体レーザ研究は国の研究費支援により生き延びたが、それもとうとう難しくなる。

菅原は「20年以上も続けた研究を、ここで止めるのも忍びないと思った。まわりの雰囲気を『忖度』して起業を決意した」と当時の心情を冗談交じりに述懐する。一方で、一緒に研究してきた科学者たちが活躍できる環境をつくりたいという思いが強かったとも。懇意にしていた東大教授の助言もあり、菅原が経営者という第二のキャリアを選択するのは2005年のことだった。

起業から15年間で、さまざまな研究結果や実用化の実績を積み上げてきたQDレーザだが、上場後にも差別化されたポジショニングと成長戦略を描いていると菅原は説明する。
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文=河鐘基

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