例えば、社内研修を任された時。例えば後輩からアドバイスを求められた時。
「自らの経験や知見を充分に伝えきれない」──そんなジレンマに陥ったことはないだろうか。
日々の業務の中で、無意識のうちに培われる知識、感覚的に身につけていく思考や技術。こうした「言語化しづらい資産」はプロフェッショナルであればあるほど複雑さを帯び、他者へ容易に伝えられない。
業種を問わず、多くの現場のボトルネックとなっているであろう、技能伝承の問題。
エンジニアとして、コンサルタントとして、製造業の一端を担っていた今回の主人公である乙部信吾も、同様の課題に幾度となく直面した。
「何とか解決できないものか」......思案する彼に転機が訪れたのは、2014年。AI技術と出合ったことで、構想の具体化へとつながったのだ。
2016年、乙部は自ら開発した「BrainModel(以下、ブレインモデル)」、そして「ORGENIUS(以下、オルジニアス)」を主軸事業に据え、LIGHTzを創業した。
ブレインモデルとは熟達者本人から発せられた複数のワードを紐づけ、その根底にある思考を整理しながら、可視化する言語モデル。これをAIプラットフォームであるオルジニアスに組み込むことで「熟練者AI」が完成し、例えば若手技術者からの些細な問いにも回答できるようになる。
驚くべきはこの会社や事業が、「地方雇用の創出」を目的に立ち上げられたことだ。
なぜ乙部は地方雇用に目を向けたのか。そしてそこにAI技術はどう生かされているのか。まずは、彼のこれまでの足取りから追うことにしよう。
「震災ボランティア」が起業の契機に
いちサラリーマンだった乙部が起業を志すきっかけとなった出来事。それは、東日本大震災だった。
2011年当時、大手メーカー・キヤノンに勤務していた彼は、震災を受けすぐに被災地に赴く決心をする。何よりも東北出身者だったことが彼を行動に駆り立てた。
休職の末、退職を決意し陸前高田~東京間を往復。現地では炊き出しや瓦礫撤去などできることはすべて行なった。しかしあっという間に手元の資金は尽き、わずか約1年で支援活動に終止符を打つ。
去り際、今後の足掛かりを探るべく「今、何がほしいですか?」と被災者に問いかけた乙部。すると意外にもお金や物ではなく「仕事がほしい」という声が方々で挙がった。
「自分の無力さを痛感しました。それまで従業員という立場しか経験しておらず、『会社を起こして雇用を生み出すこと』に対して、どうすればいいのか皆目見当がつかなかったんです」
いつか起業して、彼らに仕事を――漠然とした想いを抱えつつ、乙部は製造業を対象としたコンサルタントに転身。大手企業のエンジニアとして培ってきた知見や経験を総動員しながら、各社の改善提案にあたった。
しかし、数年ほど経った頃、ふと、不安にも似た思いがよぎる。
「『この先、あと何社の力になれるんだろう?』と。生身の人間である自分が、アナログなやり方でコンサルティングするには限界があるな、と」
プロフェッショナルの知識・思考・技術を他者に伝える難しさ。思い起こせば、それまで彼が関わってきた製造業の現場でも積年の課題となっていた。
その後、AI技術に着想を得て、彼がブレインモデル、オルジニアスを開発したのは前述のとおりだ。数式やアルゴリズムを用いず、人から発せられる言語によってつくりだされるAIは、「エンジニアに話を聞き、技術を言葉で体系化する」乙部自身のコンサルティング業務が基となっている。
“分かりやすさ”と“地方への想い”が、事業ドメインを決めた
オルジニアスが展開する機能は主に4つある。
1つ目はキーワードで技能を検索できる「サーチエンジン」。2つ目は熟達者が五感で捉える着眼点を、温度センサー・振動センサーから分析・共有する「デジタルファブリケーション」。3つ目は、2D、3Dのデータにある製品の形状特徴を言葉に置き換え、ブレインモデルと紐づける「エンジニアツール」。そして最後は、工学的なメカニズム情報を発信、提供する「データディストリビュージョン」である。
乙部は、このサービスの主な対象を製造業・農業・スポーツ・教育の4分野に絞った。
「これらの共通点は、ある程度の『答え合わせ』ができる原理原則があること。金融やマーケティングなど、人の感情に左右される領域には参入しないと決めています」
自動車、化粧品、プラント設備、重工業など、特にものづくりの現場において幅広く活用されているオルジニアス。これまでどのような成果が認められたのだろうか。
「直近の事例ですと、ライオンのハミガキの香り・味を決める『フレーバリスト』育成の現場で2021年より本格導入されています。
フレーバリストは、500種類以上の原料から商品コンセプトと合致した組み合わせを調香予測や官能評価で探り、処方を作成する専門職。『香り』『味』いずれも目に見えないスキルを駆使するため、若手への技能伝承は難しいとされてきました。
そこで、当社では計100時間以上かけて熟達フレーバリストへヒアリングを行ない、知見を可視化する『熟達者AI』を開発。試験運用では主に、原料の選択について最適解を探す場面などで活用され、香料の開発期間を導入前の半分に短縮することができました」
事業ドメインについて、彼がもうひとつ決めていることがある。それは地方における拠点進出先の基準だ。
「基本的には、『素形材加工ありき』の場所に拠点を置いています。実は私たちが自主事業の柱に据えているのが『素材AI』をつくりあげることなんです。
2021年2月現在、佐賀、山形、岩手の3拠点を構えていますが、いずれも文部科学省から『マテリアル革新力強化』エリアとして指定されており、佐賀大学はセラミック技術、山形大学は有機材料における成型技術、岩手大学は鋳造の研究に長けています。こうした国立大学と密に連携しながら、事業を発展させていけたら、と」
加えて、佐賀には有田焼、岩手には南部鉄器と、日本人なら誰もが知る伝統工芸品があるのも、これらの土地に惹かれた理由のひとつだという。
「ベースには『伝統工芸の技能伝承に貢献したい』という想いがあるんですが、それに加えて私たちスタートアップ企業は、ある種のわかりやすさが必要だと考えているんです。例えば『なぜこの地に拠点があるのか』という問いにもできるだけ一言で回答したい。本社をつくば市に構えたのも『日本の先端知が集結する学究都市だから』です」
雇用を守るためにも、地方進出後は“絶対に撤退させない”
創業からわずか2年にして黒字化を果たしたLIGHTz。その礎を築いたのは、乙部の緻密な戦略、そして“圧倒的な未来志向”だ。地方拠点においても、永続を前提とした独自の進出プロセスを実践している。
まず、乙部が現地に出向き、県知事や市長などと直接会談を行う。進出する主旨を伝え、トップと合意が取れれば開所に向けて動き出す。各自治体との信頼関係の構築や人材採用、事務所探し、開所までは彼1人でこなすが、営業開始後はそれが一転。
現地で採用したローカル社員のみで運営し、本社側は一切手を出さない。つまり全ての社員を現地で雇用するということだ。これは、乙部が自ら編み出した手法だ。
「私が生まれ育った岩手県盛岡市では、古くから企業の進出と撤退が繰り返されてきました。その渦中で親戚や知人が職を失い、苦しむ姿を何度も見てきたんです。ですから、地方進出は『絶対に撤退しない』という覚悟で臨んでいて。
準備はトップである私が行ないますが、実際に事業を運営するにあたっては、地域に住む人たち自身が知恵を絞りながら行動を起こしていかないと、真の意味で事業が土地に根付かない。本社がお膳立てをするのはナンセンスだと考えているんです。
当然、どこの拠点も開所から約2カ月間は“暗黒の時代”を経験しますが、そこから這い上がり自走し始めた時の彼らのパワーは毎回目を見張るものがありますね」
自律分散型社会の到来に向けて、発想と技術を磨く
LIGHTzの社名の由来は「明るい未来をやさしく照らす光=灯(ともしび)」。コロナ禍にあっても、先を見据えた乙部の歩みは止まらず、すでに次のフェーズに向けた取り組みに着手している。
大衆ではなく1人ひとりに目を向け、多様なニーズに応えていく「パーソナライゼーション」が、そのキーワードだ。
「AIを例えるなら、大動脈というよりは毛細血管。なかなか手が届かない小さな取り組みを支援し、社会のすき間を埋めることに適した技術だと私は捉えているんです。
今進めているのは、動物園の獣医師に向けたAIの開発です。岩手県の盛岡市動物公園では約700体の動物に対して、獣医師はたった1人しかいない。その1人に寄り添いながら、日々起こる状況変化にAIがどう対処できるかが大きなカギとなります。
ビジネスとして考えるなら、同じ獣医師なら動物病院、医療系なら創薬・製薬・治療など、もっと大きなカテゴリーに挑む文脈も考えられるでしょう。でもあえて私たちは、1人の獣医師、そして国内に84園しかない動物園に目を向けていきたい」
すでに、パーソナライゼーションを基点にした新規サービスの構想もある。
その1つがメディアの立ち上げだ。情報を人から人へ届けるPeer to Peerの概念で、「人生における気づき」や「新たな発想」を育めるような内容を発信していきたいと乙部は語る。
「コロナショックを経て、今後ますます非中央集権化が進み、社会は自律分散型へと変貌を遂げるでしょう。ブレインモデルをはじめとする私たちのAI技術は、必ずその実装に貢献できると自負しています」
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