これほどの売れっ子であり続ける秘密はどこにあるのか。どんな思いで仕事に取り組んできたのか。私はとても興味を持っていました。
インタビュー場所に設定されたホテルで、目の前に現れたのは、テレビで観る鶴瓶さんそのまま。にこやかな、明るい笑顔で、話をしてくれました。
自分の「型」を東京が買いにくる
6代目笑福亭松鶴さんに弟子入りしたのは20歳のとき。あっという間に関西で人気が出て、レギュラー番組を次々と持ちました。しかし、本格的に東京進出をしたのは、それから15年後のこと、35歳のときです。道のりは、けっして平坦ではなかったのです。
「実は弟子入りして間もないころ、僕は一度、東京に進出しているんです。ところが、失敗した。あるテレビ番組で、意見が合わないディレクターとケンカをしましてね。ナメやがってと頭にきて、生放送で素っ裸になった」
これで鶴瓶さんは、東京のテレビ界では「危険人物扱い」されてしまいます。仕事が来なくなり、最初の進出はうまくいきませんでした。
「でも、結果的に僕はこの大きな失敗でヒントをつかむんです。それは、どんな小さな世界でも、やっぱり中心人物でないと注目はしてもらえないんだということです。ここから、自分の世界をつくることを考えるようになった」
大スターから注目されたい、「あいつと一緒に仕事がしたい」と思われたい。そうなるためには、自分の世界を持ち、自分の型を持たないといけない、自分はこれだという番組をつくらないといけないと考えたのです。
「それで、大阪でいくつもの番組がヒットさせて、鶴瓶という人間の型が認められるようになった。東京が注目してそれを『買い』に来るという、自分の望んだ通りになった。13年かかりましたけどね」
しかし、2度目の東京進出も甘くはありませんでした。大阪で売れても、東京では無名。しかも、今度は前とは違い、テレビ局からも期待されているので責任は大きい。空回りして、1年ほどで何本か番組を担当するものの、すぐにゴールデンタイムの番組はなくなってしまいます。
「マスコミには、『鶴瓶、東京進出失敗』なんて書かれたりしました。でも、強なったなと自分で思ったんですけど、別の番組でそれをネタにして笑うてる自分がいましてね(笑)」
浮上のきっかけは、土曜の朝のトーク番組。その番組がいちばん「鶴瓶という人間の型」が出せていた。だから、面白くできた。視聴率もじわじわ上がっていきました。それから、いろんな番組の誘いを受けるようになっていきます。
若い頃を振り返れば、ポイントは2つあったと鶴瓶さんは語ります。ひとつは、生きていくうえでの基本をちゃんとすること。
「僕は内弟子時代に結婚していて、私生活はものすごく安定していました。これは大きなポイントでした。家をきれいにする、約束を守る、お礼の手紙を書く。そういう基本をきっちり続けることが、自分の型の基本をつくってくれたと思ってます」