「明治初期、軽井沢はワイナリーだった」知られざる観光戦略とは

軽井沢観光協会 土屋芳春会長


鈴木:軽井沢のブランドは、先人たちの知恵と苦労によって、大切に守られて来たからこそ今の軽井沢の確固たる地位があるんだと思います。

最近の軽井沢の移住者、別荘所有者などのライススタイルから、将来の別荘での過ごし方はどのようになっていくとお考えでしょうか?

土屋:よく国内の他別荘地との比較を問われますが、箱根は商談や接待向きの比較的閉鎖された迎賓館的重厚感ある別荘を想像します。一方、軽井沢は条例により敷地面積が広く開放的で、自然と同化した環境があります。また、滞在中に隣人たちと接する時間にコミュニティやクラブが成立していきます。

現在、町内には別荘団体が一般財団法人軽井沢会はじめ5団体がありますが、他にも学閥系や小規模の地域系コミュニティが多数あり、特に夏季には交歓会・文化イベント・勉強会などが盛んにおこなわれています。

今日の国際会議都市を目指している軽井沢の背景には、この空間、時間、仲間が揃い、現代ではイノベーションやインキュベーションの創出にもつながる人が交わる環境が整っています。今後ますます知のコミュニケーションが活発になると思っております。

鈴木:軽井沢には地元の方々、別荘所有者、移住者、二拠点居住者など様々な方が住んでます。地元の方から見て、外から来られた方をどのような感じで見られていますか?

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出典:長崎大学付属図書館。明治初期の軽井沢。現プリンスショッピングプラザと旧中山道(現国道18号、現軽井沢駅周辺)から旧軽井沢越しに離山と浅間山を臨む。木はほとんどなく荒地だった。開拓者雨宮敬次郎はここにワイナリーと牧場をつくった。雨宮敬次郎がカラマツを植栽したのは明治16年以降と言われている。

土屋:軽井沢は、外から来たパイオニアたちによって国際的な避暑地として発展した歴史があります、彼らのアイデアや技術は、食や産業や生活に様々な影響を与えています。

高原野菜の栽培は浅間高原の清涼な気候や風土がマッチし、それまでヒエ、アワなどの雑穀類しか生産出来なかった農業から転換させ、今では軽井沢野菜の独特な風味と品質はブランドと化しています。また、西洋人からジャムやパンの製造も伝授されたため、軽井沢にはそれに類する店舗も多数あります。

このように住民は、宿場の歴史から交流人口や関係人口を積極的に求める潜在意識があり、異文化を含め新たなものを吸収する好奇心と探求心の土壌が自然と根付いていたのです。

重要戦略は、心身ともに美しい、健康的なリゾートスタイルの提供


鈴木:外から来た方々を温かく迎え入れ、お互いに吸収しあいながら成長していく風土、そこが軽井沢の魅力の素晴らしさですね。

軽井沢に来ると体調がよくなったとか、アレルギーが少なくなったとかよく聞きますが、そのあたりウェルネス的視点から軽井沢の魅力をお話頂けますか?

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軽井沢駅北口の矢ケ崎公園から浅間山を臨む(手前は離山)。離山は軽井沢駅からも近いので、年間を通じて駅からウオーキングで訪れる人が多い。

土屋:人が軽井沢を目指す理由の中にウェルネス気候が寄与し、避暑地、別荘地としての価値も高めたと考えています。成熟社会では物欲より豊かな生活や健康への志向が強まります。健康で長寿は人類共通の願いであり、質の高い生活スタイルを欲する人々の意識に合致します。

近年ではテクノロジーの発達や企業の参入と同時に自己管理能力と意識向上もあり、コロナ禍の生活スタイルで盛んに語られているニューノーマルは、ウェルネス・免疫力強化志向においても適用されると思います。
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文=鈴木幹一

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