「明治初期、軽井沢はワイナリーだった」知られざる観光戦略とは

軽井沢観光協会 土屋芳春会長

軽井沢は人口2万人(別荘は16000軒以上)の小さなまちだ。そこに年間860万もの観光客が訪れている。観光客は春から夏に集中し、冬は閑散としている。そのような季節変動の多い軽井沢で、最近移住者が急増、テレワーカーも増えている。

今までは最近の移住者の方々に新しいライフスタイルのインタビューをしてきたが、これからは移住者に加え、新たに軽井沢の団体・企業のトップ、さらには周辺自治体の首長にも広げ、コロナ禍以降何が変わったのか、新しい移住者から読み取る次世代ライフスタイルやワークスタイルや、今後の地方創生戦略など幅広い視点でインタビューしていく。

第7回は、年間860万人もの観光客が訪れる軽井沢の観光戦略トップのお立場であり、ご先祖は江戸時代からずっと軽井沢にお住まいで、一昨年70周年を迎えた一般社団法人軽井沢観光協会の土屋芳春会長に、軽井沢の観光戦略についてお聞きした。(第1回第2回第3回第4回第5回第6回はこちら)

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軽井沢白糸の滝。信濃路自然歩道は、旧軽井沢三笠〜峰の茶屋まで「白糸の滝」「竜返しの滝」を通り、緑の中を谷川のせせらぎを聞きながら森林浴を楽しみながら散策する、延長11kmのトレッキングコース。春から秋にかけて、軽井沢駅から旧軽井沢三笠を経て白糸の滝まで、トレッキングする人も多い。

サロン文化・別荘文化から始まった軽井沢コミュニティの歴史


鈴木幹一(以下、鈴木):軽井沢は江戸時代の参勤交代で栄えていましたが、明治に入り参勤交代がなくなり一気にすたれました。

明治19年に宣教師ACショーが、布教活動の途中で軽井沢に立ち寄り、自然豊かな高原の気候を気に入り、多くの宣教師たちにその魅力を伝えた。その後外国人宣教師たちが多数訪れ別荘を構え、同時に万平ホテル、旧三笠ホテルなど本格的西洋建築のホテルの開業、日本の政財界の方々の別荘の建築などを通じ、サロン文化・別荘文化が定着、多様な人たちが軽井沢で交流をするといったライフスタイルが根付いていきました。

また明治・大正時代にかけ、偉大な開拓者が当時荒地で森がなかった軽井沢を開拓して、現在の自然豊かな軽井沢の礎を築き、高級リゾート地と言われている現在の軽井沢が形成されました。開拓の歴史的ポイントをお話頂けますでしょうか?

土屋芳春(以下、土屋):軽井沢の歴史で重要な人物の一人は、生糸、製粉、鉄道会社事業を興し、その規模の大きさとアイデアで実業界を牽引した雨宮敬次郎です。彼は肺病を病み転地療養のため軽井沢を訪れ、1883年(明治16年)には300万坪にも及ぶ土地を購入し、その目的は米国的な農場経営で、ワイン用ブドウ栽培、家畜育成などを試みでした。しかし地理的条件の研究不足などから失敗に終わります。

その後植林事業に転換し、大正期には700万本にも及ぶ広大な森林景観を誕生させました。草原の大地は森林に変貌し、その風景に感銘を受けた北原白秋をはじめとする文学者たちは多くの名作に残しています。このことからも雨宮敬次郎は絶大な功績を残したと評価できるでしょう。

鈴木:雨宮敬次郎は、最初ドイツからブドウの苗木を取り寄せてブドウ栽培を始め、夏は育ったが冬の寒さで皆枯れてしまった。翌年はアメリカ品種の「イサベラコンコルド」なら寒さに強いだろうとの考えで植えたが、3年位ですべて枯れてしまったと軽井沢の歴史本で読んだことが有ります。

そのような先人の苦労があって、今の千曲川ワインバレーの繁栄につながっているという意味でも、雨宮敬次郎は大変大きな成果を残された方なんですね。それにしても明治時代、現在の軽井沢駅周辺から旧軽井沢周辺が牧場やワイナリーだったなんて、今からは全く想像は出来ませんね。とてもロマンがあって面白いと思います。

明治中期、宣教師は軽井沢の発展に大いに寄与したと思いますが、そのあたりのお話をお願いいたします。
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文=鈴木幹一

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